応用美術や大衆芸術と区別されるファインアートの概念は18世紀後半のヨーロッパにおいて確立した。 その芸術的価値だけではなく、他の実用的価値を持つものを応用芸術、大衆の娯楽のためのものを大衆芸術と呼び、そのいずれにも属せず、芸術的価値を専らにする活動や作品をファインアートと呼ぶようになった。
「再生」「復活」などを意味するフランス語であり、一義的には古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動。14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。
中世までの美術はもともと建築の装飾だったが、ルネッサンス以降、壁画や彫刻は建築から離れ、絵画・彫刻など、単体としての鑑賞美術となり「純粋美術(ファインアート)」と名付けられた。美術家の活動は鑑賞本位の分野に。
ルネッサンス以降、壁画が壁から離れ、彫刻も彫像だけが建築から独立。壁画が板絵、タブローとなって壁から離れ、構造物への彫刻も、彫像だけが独立し、もとの建築物との直接の関係がなく制作されるようになり、独自のジャンルとして絵画、彫刻が発展した。この背景にはテンペラや油彩が発明されるという技術的要素や、絵画、彫刻が商品として売り買いされるという当時の社会経済状況がある。すなわち装飾性が、他の実用的機能と切り離されて制作されて発展し、装飾性は芸術性に格上げされる。ここにおいて、他の実用性から独立した芸術的価値という概念が産まれた。装飾性から芸術性への格上げには作家の個性を重んじる思想がある。実用的機能と切り離されることによって、作家の個性による創造性がもっとも発揮される。
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著名な作家:「レオナルド・ダ・ヴィンチ」「ミケランジェンロ」「ラファエロ・サンティ」 「サンドロ・ボッティチェッリ」「エル・グレコ」
フランスで1648年「王立絵画彫刻アカデミー」が設立。シャルル・ル・ブランが主導した。絵画・彫刻の振興を目的として設立された組織。以後150年間にわたって存続し、芸術家の教育方法の開発や展覧会の開催など、美術史上、大きな役割を果たした。また歴史画を頂点とする古くからの絵画観を強化し、西洋絵画の制度化を推し進めた。
アカデミーでの芸術教育は、併設された「王立絵画彫刻学校」で行われ、12人の幹部が毎月交代で指導にあたった。絵の具の溶き方や画布の張り方といった基礎技術、初歩の素描については、アカデミー会員の工房に弟子入りして手ほどきを受けておくことが前提になっていた。授業は古典古代・ルネサンス期の建築や人体の石膏像を研究することから始まり、人体を描いた素描や版画の模写、古代彫刻の石膏像の模写、男性裸体モデルの素描と進められた。また理論教育も重視され、幾何学・解剖学・遠近法・文学といった授業が行われていた。
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- フランス古典主義絵画を代表する作品
- ルイ14世はこの絵を買って、自分が死ぬまで身近に置いていた
シャルル・ル・ブランの師匠。シャルル・ル・ブランはプッサンの絵画理論を基にしたフランス古典主義を広め、美の規範とした。

シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun, 1619年2月24日 - 1690年2月22日)は、フランスの画家、室内装飾家、美術理論家。ルイ14世の第一画家としてヴェルサイユ宮殿、ルーヴル宮殿等の内装を担当。王立絵画彫刻アカデミー(後の芸術アカデミー)やゴブラン工場(w:Gobelins Manufactory)の設立運営にも関わり、17世紀フランス工芸・美術界に強い影響を与えた。
国務大臣コルベールはアカデミーの画家たちに王室からの注文の独占、展覧会への出品といった特権を与える見返りに、国王の栄光を称えて絶対王政の確立を推し進めるための武器として芸術を利用しようとした。ヨーロッパに冠たる芸術国家を作ろうという国家の芸術政策の基、アカデミーは芸術家の育成(エコール・デ・ボザール)、表彰(ローマ賞)、展示(サロン)といった特権を独占していった。

ジャン=バティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert, 1619年8月29日 - 1683年9月6日)は、17世紀のブルボン朝フランスの政治家。ルイ14世の財務総監を長年務め、フランスの経済・文化政策を主導した。彼は、文化を政治的に利用し、フランスの国家的利益を追求した。
具体的には、コルベールは、芸術や文化を国家プロパガンダの手段として利用し、フランスの国家イメージを高めるために、美術品の収集や美術館の建設、芸術家や文化人の保護などを行った。また、彼は、美術品の収集においては、国家の富と権威を示すために、ルネサンス期のイタリアの芸術品に特に注目した。これらの政策によって、フランスは芸術・文化界においてイタリアに次ぐ水準を達成し、国際的な地位を高めた。
また、コルベールは、技術や産業にも力を入れ、国家の発展に貢献した。彼は、王立科学アカデミーの創設や、産業の発展に必要な技術や知識の習得のための専門学校の設立などを行い、フランスの科学技術や産業の発展に大きく貢献した。
ただし、コルベールが文化を政治的に利用したことには、批判もあり、彼が収集した美術品や建築物は、国家の富や権威を誇示するために用いられ、一部の人々の私的な嗜好や趣味に基づいていたとの批判もある。また、コルベールが推進した芸術や文化の発展は、一部の人々のみが恩恵を受け、貧困層や一般庶民には届かなかったとの指摘もある。
17世紀パリに設立されたフランスの高等美術学校である。王立絵画彫刻アカデミーの附属学校として設立。350年間以上にわたる歴史があり、建築、絵画、彫刻の分野に芸術家を輩出してきた。現在は建築がここから切り離されている。 ボザールでの教育は伝統的、古典主義的な作品が理想とされ、これらの理想化された様式を踏襲させていく、世界にもまれな教育システムであった。教育制度として、解剖学・遠近法・美学・美術史などを持った。アカデミーは古典主義芸術の進展を促す母体となっていき、ルイ14世からルイ16世までの旧制度化においてフランスで絶対的な地位を確立するにいたった。また1666年にはローマにフランス・アカデミーを設置し、本国から選りすぐりの芸術家を古典文化の発掘と接収を目的に派遣するようになった。 教育と修業の違い:アカデミーが集団で学ぶ学校だとしたら、徒弟制度での修業は親方により個別に仕事の秘訣を伝授される個人授業。一方、付属美術学校での基本は、男性裸体モデルのデッサンと体系化された理論的な学術的規範を集団で学ぶことにあった。親方の技巧を見て学ぶ修業と違い、アカデミーは規格化された理論と実践による教育を重視した。修業ではなく教育によって、職人階級との差別化を図った。 同時に、画家達をさまざまな拘束があった同業者組合から解放した。
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- 19世紀フランス・アカデミーで最も成功した画家のひとりアレクサンドル・カバネルの代表作。当時、裸婦は歴史や教義になぞらえて表現するのがセオリーとなっていた。
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- 19世紀フランスのアカデミズム絵画を代表する画家で、神話や天使、少女を題材とした絵画を多く残した。1876年には美術アカデミー会員となり、1888年にはエコール・デ・ボザールの教授に就任している。
ルイ14世の治世下の1663年に創設された。創設当初のローマ賞では建築、絵画、彫刻、版画の各賞が設けられ、王立絵画彫刻アカデミー、後に芸術アカデミーの審査により優秀者が選出された。このうち第一等、第二等受賞者が、1666年に財務総監、コルベールと筆頭宮廷画家のシャルル・ルブランによって設立されたローマの在ローマ・フランス・アカデミー(Académie de France à Rome) での3年から5年の留学滞在の権利、奨学金が与えられた。
フランスにおける「官展」を指す。「官展」とは官設展覧会の略で、1648年に設立されたフランス王立絵画彫刻アカデミー主催による展覧会のことである。67年にアカデミーの保護会長を務めていたジャン・バティスト・コルベールと同組織内での覇権を確立していたシャルル・ル・ブランによって最初の展覧会が開催された。この展覧会を「サロン」と呼ぶに至ったのは、ルーヴル宮の「サロン・カレ(方形の間)」で開催されたことに由来する。67年に創設されて以降、何度かの中断をはさみつつ、フランス革命が起こる1789年までほぼ隔年開催された。当初、出品はアカデミー会員のみに限られていたが、大革命の後、一時的に無審査となるなど幾度か方針の変更などを経て、政府主催、審査制度により一般の参加も認められるようになった。サロンは大衆に開かれた唯一の展覧会であったため、アカデミーの規範こそが芸術の規範であると知らしめることとなった。
ルイ14世は、17世紀フランスの王であり、その統治期間は長く「太陽王」として知られている。彼は、ルネサンス期の美術に非常に興味があり、自身の統治において、ルネサンス美術に大きな影響を与えた。イタリアに通い、ルネサンス美術に触れ、その美術品をフランスに持ち帰った。彼は、特に古代ローマや古代ギリシャの美術に傾倒し、彼らの芸術的なスタイルを自身の統治に取り入れることを望んだ。
そのため、ルイ14世は、自身の宮殿の内装や庭園の設計において、ルネサンス美術の影響を受けた芸術的なスタイルを採用した。例えば、彼はヴェルサイユ宮殿に多くのルネサンス美術の作品を収集し、それらを宮殿の内装に取り入れた。また、彼はフランスの芸術家たちに、古代ローマや古代ギリシャの美術の影響を取り入れたスタイルを採用するように指示した。
この影響は、フランスの芸術や建築にも大きな影響を与えた。彼の支援によって、多くの芸術家や建築家たちがルネサンス美術のスタイルを学び、それを自分たちの作品に取り入れることができた。また、芸術に対するフランスの国家的な関心を高め、フランスが芸術において重要な役割を果たすようになるきっかけとなった。
王の権力は強大すぎるため、その座を狙う人々が多く、常に権力闘争の渦中に置かれた。権力を維持するために官僚制(優秀な頭脳)と常備軍(優秀な軍隊)が必要であり、彼らを雇うために、莫大な資金が必要であった。資金を産むために「重商主義」の中の「貿易差額主義」という経済政策が取られた。特定の商人団にだけ貿易の特別許可を与え、彼らの稼ぎから、税金を吸い上げるシステム。(代表的な会社:東インド会社)重商主義により、商品経済が急速に発展した。
12世紀頃から、イギリスは十字軍の遠征でアジアとの交流が生まれ、15~16世紀になると、貨幣経済と貿易が本格化した。当時のイギリスにとっていちばんの売れ筋商品は、毛織物だった。しかし、イギリスは小さな島国であり、羊を飼うための土地が足りない。そこで地主(ジェントリー)が農民から強引に農地を没収し、そこを柵で囲い込んで中で羊を飼い始めた。これを「囲い込み運動」という。土地を追われた農民たちは、労働者に転化し、毛織物工場での「工場制手工業」(マニュファクチュア)に吸収されていく。囲い込み運動は、労働者階級を誕生させると同時に、工場という生産手段を所有する資本家階級も誕生させた。
「重商主義」と「囲い込み運動」により、「商品経済の発展」と「資本家と労働者の誕生」が達成され、資本主義の礎が築かれた。
イギリスで18世紀半ばから19世紀半ばにかけて起こった、生産技術の急激な発展と、それに伴う社会の大変革。イギリスの繊維産業の発展がきっかけ。飛び杼(手織機に糸を自動的に通す道具)を発明したジョン・ケイや、紡績機(綿や羊毛から糸をつくる道具)に大幅な改良を加えたハーグリーブズのジェニー紡績機、クロンプトンのミュール紡績機、アークライトの水力紡績機などにより、繊維生産は工場制手工業(マニュファクチュア)から「工場制機械工業」に変わった。さらに18世紀終盤からワットの蒸気機関が加わり、19世紀中盤からはそれを応用した鉄道や蒸気船などの交通革命も加わったことで全産業的に、産業革命は広まっていく。
産業革命を支えた資本家。富裕であるが、市民階級であり、出自は地主、独立自営農民、手工業者、商人とさまざまだが、おおむね共通して、重商主義による特別許可制の経済政策と王政・東インド会社を嫌った。
17世紀にあった二度の市民革命(清教徒革命と名誉革命)により、王政は淘汰され、イギリスは本格的な自由競争の時代に突入していく。またフランスでもイギリスを追うかたちで市民革命が起こり、王政が淘汰され、資本主義が確立されていく。
美術品の売買は古くからあったが、その大部分は、王侯、貴族、寺院の直接的な依頼、購入によるものであり、制作者との間を仲介する人間が必要となったのはルネサンス以降である。それも初めは、人と人の間をなにかととりもつ僧侶の仕事であったり、画家自身の仕事であったりしたが、中世的なギルド組織の崩壊とともに、独自の職業として自立することとなった。画商、より広くいえば美術商の誕生は18世紀の中ごろで、ジェルサン、ルブラン、ラザール、デュボといった名前が知られている。彼らは少数の大ブルジョアを相手とし、骨董品を主とする商人だった。それ以前の16、17世紀から、あらゆる物品を扱う競売業者が美術品をも扱っていて、そのなかから、専門商が分化したと考えられているが、他方、画材店から転向した人も少なくない。
近代的な意味での画商、すなわち同時代の画家の作品をもっぱら商う職業が成立するのは19世紀中期であり、その最初の人として、パリのポール・デュラン=リュエルやベルネーム・ジューヌがあげられる。彼らは、バルビゾン派、印象派、そして後期印象派と、相次いで登場する同世代の作品を世に送り出し、19世紀の末には経済的に成功した。その結果、多数の追随者を輩出させ、彼らの激烈な相互競争によって、美術市場が開け、人気作家の価格は高騰し、美術品の売買は完全に資本主義的な職業となった。現代美術の歴史は、画家と画商との複雑な関係史でもあり、ボラールとセザンヌ、カーンワイラーとピカソの例がそれである。

ポール・デュラン=リュエルは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、フランスの重要な画商の一人でした。彼は印象派運動の支援者として知られており、当時の革新的な芸術家たちの作品を紹介し、彼らを世に広めることで有名になりました。
デュラン=リュエルは、1831年にフランスのパリで生まれました。彼は画商の家系に生まれ、父親のもとで画商の見習いとして働き始めました。やがて、彼は自分の画廊を開き、数多くの有名な画家たちと出会い、彼らの作品を販売することになりました。
特に、デュラン=リュエルは印象派運動の中心人物として知られています。彼はクロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレーなど、多くの印象派の画家たちの作品を展示し、彼らの才能を広く世に知らしめることに貢献しました。
また、デュラン=リュエルは、印象派運動の中で特に厳しい経済状況に苦しんでいた芸術家たちを支援するために尽力しました。彼は、彼らの作品を買い上げて、彼らを支援し、彼らが自分たちの芸術的才能を追求することができるようにしました。
デュラン=リュエルは、1905年にパリで亡くなりましたが、彼が支援した芸術家たちは、現在でも世界的に有名な画家たちとして知られています。彼の功績は、現代の芸術界に大きな影響を与え、彼の名前は、フランスの芸術界における偉大な人物として永遠に記憶されることになりました。
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部屋を暗くし、壁に開けた穴から屋外の風景の光をキャンバスの上に映し出す。
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16世紀頃には立体の風景を平面に投影するために、カメラ・オブスクラ(「暗い部屋」の意)と呼ばれる装置を用い、その中に投影された像をトレースすることで、実景に似た絵画を描いた。人手でトレースする以外の方法でその像を残すことはできないものであった。
ニセフォール・ニエプスによって撮影された写真のひとつ「ル・グラの窓からの眺め」(1826年か1827年ごろ)
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最初の写真は、1827年にフランス人発明家ジョゼフ・ ニセフォール・ニエプス によって発明された。産業革命により大勢誕生した中産階級によって、肖像画の需要が高まっていた。しかし、この肖像画需要は、油彩画では生産の速度からして需要に応えきれず、写真技術の発展を後押しすることになった。そして、写真技術の発展とともに写真は1840年代のヨーロッパに熱狂的に広がった。
写真の出現により、肖像画を職業としていた多くの画家が職を失い、写真の修整や、彩色といった職業へ転進していった。現実問題として、絵画を写真のように描いていたのでは商売にならない。芸術的にも、写実的に絵を描いても意味がないと判断した画家が現れ、モネなどに代表される、印象派が誕生した。
対象の正確さより、対象に対する印象で描くようになり、画家モネは、当時発売されたチューブ入り絵の具を使い、スタジオから屋外に出た。また、絵の具を混ぜて色をつくることを止め、点として加えていった。このため非常に彩度の高い色表現に成功した。これは現代のオフセット印刷の原理と同じで、これが、技法としてはスーラなど、点描派へと引き継がれてゆく。その他、画面構成、光の光学的正確さや、諧調など、さまざまな写真的技法の影響が現れた。
印象派の名前の由来となる美術史上、重要な意味を持つ作品。
モネはこの作品に関して「ル・アーヴルで部屋の窓から描いた作品で、霧の中の太陽と、そそり立つ何本かのマストを前景に描いた」と述べている。この作品が初めて展示されたのは1874年の印象派展で、その展覧会のカタログの責任者であったエドモン・ルノワールから作品のタイトルを求められた時のことをモネは次のように説明している。「これに『ル・アーヴルの眺め』という題をつけることはできなかった。そこで『印象』としてほしいと言った。」
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シカゴ美術館 1909年の「水の風景連作」展出品作の一つ
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印象派(いんしょうは)または印象主義(いんしょうしゅぎ)は、19世紀後半のフランスに発した絵画を中心とした芸術運動であり、当時のパリで連続して開催することで、1870年代から1880年代には突出した存在になった。この運動の名前はクロード・モネの作品『印象・日の出』に由来する。この絵がパリの風刺新聞『ル・シャリヴァリ』で批評家ルイ・ルロワの槍玉に挙げられ、皮肉交じりに展覧会の名前として記事の中で取り上げられたことがきっかけとなり、「印象派」という新語が生まれた。
印象派は登場当初、アカデミー絵画のルールを無視し、この時代には王侯貴族に代わって芸術家たちのパトロン役になっていた国家(芸術アカデミー)にも評価されず、印象派展も人気がなく絵も売れなかったが、次第に金融家、百貨店主、銀行家、医師、歌手などに市場が広がり、さらにはアメリカ合衆国市場に販路が開けたことで大衆に受け入れられていった。ビジュアルアートにおける印象派の発展によって、ほかの芸術分野でもこれを模倣する様式が生まれ、印象主義音楽や印象主義文学として知られるようになった。
エドゥアール・マネ:印象派展には出展しなかったが、印象派風の作品を描いている。絵画のテーマとして取り上げる主題は古典的な作品を描いたものが多く、その点では写実主義をとっていたと言える。しかし、マネは1863年にサロンに出展した「草上の昼食」という作品で生身の女性を描いたため、これまでの伝統的様式、アカデミーに対する挑戦だと受け取られた。(これまでは女性の裸像は女神に限られていたため。)
それがきっかけで後の印象派の画家たちがマネを慕うようになる。(印象派の画家たちはこれまでの保守的なサロンに対抗するように集まった画家集団であったため。)
ひとりの職人の腕にまかされていた物の製造が、複数の専門家を擁する工場へと移行していった。この過程のなかで、物の製造段階とデザイン・プロセスが分離し、同時に製造に先立つ物品計画の必要性が生じ、そこから現代的意味でのデザイン、専門家としてのデザイナーという概念が誕生した。その後イギリスでは、加速化する産業革命と消費文化普及の一方で、立ち後れたデザイン水準が工業製品の品質を低下させた。
さまざまな技術革新により、機械化によって生産性が一気に向上。工業中心の時代が始まった。また人口が急増し、人々が都市に流れ込み、工場労働者となっていった。イギリス各地で工業都市が生まれていった。一方で、急速な工業化は都市での大気汚染の発生、貧困層の増大など新たな社会問題も生み出した。
職人が丹念に作っていた製品とまるっきり同等のものを機械化して作る技術はまだ無かった。中世の職人たちは単に工場で働く労働者となり、伝統的な技術と誇りを失い、結果、ものづくりは、無教養な製造業者に委ねられていた。芸術や装飾の価値は低下。器械による粗悪な装飾品の大量生産が行われた。
大量消費の環境としてのデパートの出現。デパートは産業革命で大量生産された衣類を大量買い付けにより、仕入れ値を安くすることに成功し、入店・出店を自由にした(それまでは商品を買わないと店から出れなかった)。また、衣料品だけでなく、雑貨も揃え、今と同じデパートの形態となった。
産業革命以後、道路・歩道が整備され、交通の便が良くなり、人々が都市に流入しやすくなった。また、世界標準時間が成立し、通信が発達したことで、時間の認識が都市と地方で同じになった。結果、低運賃の鉄道を利用した通勤社会が実現し、都市への人々の流入を加速した。
大量生産・大量消費の時代が始まったが、芸術・装飾の価値は低下していった。