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デザインの認知と美術工芸運動

デザインの認知

ヘンリー・コール(Henry Cole)1808-1882

産業革命以降、熟練労働者を締め出し、不熟練労働者の増大を生み出した。結果、製品の質の低下が露呈し、従来の優れた手工技術を伝承・習得する職業教育・徒弟教育制度に代わる、機械による生産方式に適合するデザイン教育が社会から求められるようになった。産業革命を先駆けて経験したイギリスは、立ち遅れたデザイン振興に国家的に関与するようになる。1837年には官立デザイン学校が設立されたが、51年のロンドン万国博覧会で示されたイギリス製品の美的水準の低さが露呈。政府の文官ヘンリー・コールらを、同校の改革および初等教育課程に芸術教育を組み込むことによる底辺拡大へ向かうことになる。

ヘンリー・コール

イギリス政府の文官。1840年代後半、混迷を極めるデザイン学校(1837年イギリスで最初の官立デザイン学校設立)の救世主となる。ヴィクトリア朝切っての多才で敏腕な改革者。もともと子供向けの絵本や、クリスマスカードの制作や販売で成功。職人と一緒になって実用的で安価、しかも美しい製品として紅茶器セットを開発するなど優秀な産業デザイナーであった。

出典:Wikipdia

「ジャーナル・オブ・デザイン誌」の発行

コールは、1849年、印刷物を通して大衆に「デザイン学校」の根本的な組織改革の必要性を要求した。「既存の装飾産業に関する情報を提供し、その改善を試みる前に現況を徹底的に明らかにする」を命題としてデザイン関係者に大いに評判に。コール本来の意図は、広範な社会的、経済的、政治的な運動を推進するメディアを手に入れることであった。

ガバメント・スクール・オブ・デザインの設立

1837年に官立デザイン学校(GOVERNMENT SCHOOL OF DESIGN)として創立(後のロイヤル・カレッジ・オブ・アート)。しかしデザインの教授法がなかなか定まらず、成果を出せないデザイン学校に1840年代後半に介入してくるのがコール。首尾一貫した教育システムが築かれ、サウス・ケンジントン博物館(ヴィクトリア&アルバート博物館)と一体となり発展した。

ロンドン万国博覧会 (1851年、1862年)

1851年、万国産業製作品大博覧会はアルバート公、ヘンリー・コール、そして芸術・工業・商業振興のための王立協会の他のメンバーによって、近代の工業技術とデザインの祝典として組織された。英国は産業革命により、工場生産業が幅をきかせ、進歩の一途をたどり、世界の工場と呼ばれていた。さらに、この万博を開催することで、その圧倒的な工業力を世界に知らしめることになった。水晶宮(クリスタル・パレス)という建物を博覧会の会場のシンボルとし、会期中の延べ入場者数は約604万人で、興行的にも大成功を得た(この数は当時のイギリスの総人口の約1/3、ロンドンの人口の3倍に当たる)。またその利益は、ヴィクトリア&アルバート美術館、サイエンス・ミュージアム、ロンドン自然史博物館を設立する為に使われた。それら全ては「アルバートポリス(アルバートの街)」と呼ばれた博覧会会場の南側、ロンドン大学のそばに建設されている。
しかし、同時にこの博覧会は英国のデザインが諸外国に比べて、劣っていることを人々にはっきりと認識させた。そして、この失敗がコール主導の「デザイン学校改革」につながっていく。また、この時に展示された東洋の美術品の高い品質や、建国期のアメリカのユーザーの要望に忠実に応えていく製品制作はコール達に大きな衝撃を与えた。

ジャポニスム

ロンドン万博に出展された東洋の美術品は、当時、上海領事であったラザフォード・オールコックのコレクションであった。彼は中国の美術工芸に関心を持っていた。しかし、中国政府や貿易商の協力を得られず、1862年のロンドン万博に向け、今度は日本の美術工芸品や天産物を収集した。また、日本(江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩)が初めて参加したパリ万国博覧会でも日本美術(浮世絵、琳派、工芸品など)が注目され、日本の美術品(漆器、陶器、金工細工、織物、絵画、版画など)は、諸外国と比較され絶賛された。
1870年には、フランス美術界においてジャポニスムの影響はすでに顕著であり、1872年に美術評論家のフィリップ・ビュルティがその流行を「ジャポニスム」と呼んで解説、1876年には"japonisme"という単語がフランスの辞書に登場した。19世紀末から20世紀初頭にかけての日本ブームについて、フランスの翻訳家ルイ・ファビュレは、「日本は巨人のような大股で世界に登場し、今日世界中の眼がこの国に注がれている」と記している。
ジャポニスムは画家を初めとしたヨーロッパの芸術家にも多大な影響を与えた。たとえば、ゴッホによる『名所江戸百景』の模写や、クロード・モネの「ラ・ジャポネーズ」、ドガを初めとした画家の色彩感覚にも影響を与えた。なお現在も製造、販売されているフランスのかばんメーカーのルイ・ヴィトンの「ダミエ」キャンバスや「モノグラム」キャンバスも、当時のゴシック趣味、アール・ヌーヴォーの影響のほか、市松模様や家紋の影響もかかわっているとされる。

デザインの理論化

オーウェン・ジョーンズ (Owen Jones)1809-1874

ロンドン生まれの建築家兼デザイナーであり、19世紀で最も影響力のあるデザイン理論家の1人。ヘンリーコールとの緊密な関係を通じてサウスケンジントン博物館の形成において中心的な人物となる。19世紀のデザイン改革の重要人物。1851年のロンドン万国博覧会の建物の内装と展示のレイアウトまで担当。これらのデザイン提案は、デザインの手引き書として頻繁に使われる、彼の独創的出版物である「装飾の文法-The Grammar of Ornament」の基礎となった。自然形態を分析し、内存する幾何学的性質を引き出している。

出典:The Grammar of Ornament
出典:Wikipedia

装飾の文法(The Grammar of Ornament)

オーウェン・ジョーンズの「イギリス近代装飾史コレクション」の1つ。出版の背景には1851年にロンドンで開催された第1回万国博覧会の影響と19世紀中葉のヨーロッパにおける趣味の転換を見ることができる。内容は未開部族の装飾文様から、エジプト、アッシリア、ギリシャ、ポンペイ、ローマ、ビザンティン、アラビア、トルコ、アルハンブラ、インド、中国、ケルト、中世、ルネサンス、エリザベス朝、イタリアの文様に続き、自然と葉と花の章で終わる。非西欧圏の装飾文様を多く紹介していることと、デザインの源泉である自然を観察することを示唆している点が興味深い。また19世紀後半にかけて出版された装飾芸術に関する一連の著作物を生むきっかけともなっている。

引用:女子美術大学図書館

サウス・ケンジントン博物館(現在:ヴィクトリア&アルバート博物館・美術館)

ロンドンにある世界最大規模の装飾芸術・デザインと美術の包括的なコレクションをもつミュージアム。1852年、ヘンリー・コールらによって「製品博物館」としてマールバラ・ハウスに開設される。51年のロンドン万国博覧会に展示された同時代の精選品をデザインの見本として収蔵し、製造に役立てるため素材別のコレクションをもつに至った。57年には、現在の地であるサウス・ケンジントンに移り、施設の改築と拡大が図られ、「サウス・ケンジントン博物館」と呼ばれるようになる。同館は元来、学校付設のミュージアムで、英国製品の質向上のみならず官立デザイン学校での教育と大衆の趣味向上が目的とされていた。学校の講義室は、中庭を囲む建物の西側の最上階にあったほか、当時においては世界で初めて館内に食堂がつくられてもいる。西欧ではこれに倣った工芸博物館がパリ、ウィーンやハンブルグなどに次々に開館した。99年には、ヴィクトリア女王が「ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館」への改称を指示、1909年に現在見られるファサードが完成した。20世紀初頭にはデザイン分野の収集方針が保守的になり、活動の停滞した状況が続いたが、戦後には設立当初における同時代のデザインの収集・展示という目的が復活した。運営においては、80年代後半以降、商業面に携わる株式会社V&Aエンタープライズが設立されたほか、近年、英国政府の方針と肩を並べて、クリエイティヴ産業の振興にも力を注ぐなど、さまざまな改革を行なっている。

引用:artscape

クリストファー・ドレッサー (Christopher Dresser) 1834-1904

イギリスの工芸(工業品)デザイナーである。19世紀末のウィリアム・モリスによって主導されたイギリスの美術運動、アーツ・アンド・クラフツ運動の時代のデザイナーであり、モダン・デザインの道を切り開いた。ロンドンの官立デザイン学校(Government School of Design:後のロイヤル・カレッジ・オブ・アート)で作図と植物学を学び、オーウェン・ジョーンズの『装飾の文法』に詳細な植物の花の形態を描いた挿絵を提供し、名声を得る。
1855年に官立デザイン学校の教授となり、多くの工芸品に関する著作や実際の工業製品のデザインをした。1859年からはサウス・ケンジントン博物館(ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の前身)で植物学の講義を始めている。
彼のデザインの基礎となっている考え方は「功利性」という概念。「合理性・機能性」という概念の元になったものであり、日常生活で使う道具であり、製造しやすく使いやすいもの。華美ではない美しさを伴うもの。つまり、商業的価値と美的価値との両立の可能性を追求した。

出典:artagenda
出典:Wikipedia

ジャポニスムとの関わり

1862年のロンドン万国博覧会の日本館を訪れ、初代駐日英国公使のラザフォード・オールコックが収集した日本の美術品や工芸品が展示された日本の工芸品に興味を持ち、日本の美術品に関する著作も多く発表するようになった。
さらに明治9年、サウス・ケンジントン博物館から多くの美術工芸品を携えて日本を訪れた。その滞在中に明治政府の依頼により多くの美術工芸品の生産地を訪れ、日本の殖産興業政策に大きく貢献した。また帰国後には、ヨーロッパに日本の美術や建築を紹介し、当時大きなブームを呼んでいたジャポニスムの展開にきわめて重要な役割を果たした。
ドレッサーは、日本の陶磁器や金属器などを幅広く研究し、西洋の伝統的な装飾概念にとらわれない自由な発想で創作をつづけた。素材の美しさと機能に応じたシンプルでダイナミックなそのデザインは、100年以上たった現在においても輝きを失っていない。

引用:artscape

美術工芸運動(アーツ・アンド・クラフツ運動)

イギリスの詩人、思想家、デザイナーであるウィリアム・モリス(1834年-1896年)が主導したデザイン運動。美術工芸運動ともいう。1880年代から始まった。ヴィクトリア朝の時代、産業革命の結果として大量生産による安価な、しかし粗悪な商品があふれていた。モリスはこうした状況を批判して、中世の手仕事に帰り、生活と芸術を統一することを主張した。モリス商会を設立し、装飾された書籍(ケルムスコット・プレス)やインテリア製品(壁紙や家具、ステンドグラス)などを製作した。
1880年代になるとモリス商会のような工房(ギルド)が各地に設立され、「アーツ・アンド・クラフツ運動」へと発展していく。アーツ・アンド・クラフツ運動はモリス・マーシャル・フォークナー商会の創設、あるいはそれに先駆ける、モリス自邸《レッド・ハウス》の建設をその始まりとすることが多い。
アーツ・アンド・クラフツ運動の提唱者たちは、中世の職人の同業組合「ギルド」にヒントを得て、数々の組織を結成していった。ハンディクラフトを極度に尊重し、機械を極度に排斥する、モリスの思想を反映した、モリス商会の製品自体は結局高価なものになってしまい、裕福な階層にしか使えなかったという批判もある。しかし、生活と芸術を一致させようとしたモリスの思想は各国にも大きな刺激を与え、アール・ヌーヴォー、ウィーン分離派、ユーゲント・シュティールなど各国の美術運動にその影響を与えた。アメリカ合衆国にもアーツ&クラフツ運動はあった。イリノイ州のシカゴがアメリカにおける運動の拠点で、建築家のフランク・ロイド・ライトも創立者の一人であったし、ミシガン州にあるクランブルック・アカデミー・オブ・アートの創設者であるジョージ・ゴフ・ブースも運動の推進者であった。
日本の柳宗悦もトルストイの近代芸術批判の影響から出発し、モリスの運動に共感を寄せ、1929年、かつてモリスが活動していたロンドンのケルムスコット・ハウスを訪れた。柳の民芸運動は日用品の中に美(用の美)を見出そうとするもので日本独自のものであるが、アーツ・アンド・クラフツの影響も見られる。

ジョン・ラスキン (John Ruskin) 1819-1900

19世紀イギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家。同時に芸術家のパトロンであり、設計製図や水彩画をこなし、社会思想家であり、篤志家でもあった。ターナーやラファエル前派と交友を持ち、『近代画家論』を著し、中世のゴシック美術を賛美する『建築の七燈』『ヴェニスの石』などを執筆。美術批評の枠を超えた大きな影響力を持っていた。
トルストイはラスキンを「自身の心で考える稀有の人物の一人」と評し、夏目漱石も『文学論』でラスキンの美学を紹介している。また、マルセル・プルーストやガンジーもラスキンの著作に影響を受けたという。

ラスキンの美術に関する考えは、一言で言えば「自然をありのままに再現すべきだ」ということであった。この思想の根幹には、神の創造物である自然に完全さを見出すという信仰があった。

「美術というものは、一人の人間の手と頭と心とが一緒に 調和しているものです。・・・ 手がすべてのものの基盤になっている。」という言葉も残している。

出典:Wikipedia

ジョン・ラスキンの名言

ゴシック建築

ゴシック建築は、12世紀後半から花開いたフランスを発祥とする建築様式。以前のロマネスク建築の要素をさらに発展、洗練させて生まれたのがゴシック建築。フランスからイギリス、ドイツなどの北部ヨーロッパの国々を中心に広まった。中世の人々にとって、町を象徴する壮麗な大聖堂は、神の存在を示すものであると同時に、それ自体が希望でもあった。
ゴシック建築の構造上の特徴として、「リヴ・ヴォールト」と呼ばれる円形状の天井と、尖塔アーチ、「フライング・バットレス」と呼ばれる外壁を支える飛梁が挙げられる。

ウィリアム・モリス (William Morris) 1834-1896

 イギリスにおける産業革命期の最終段階とされる 1830年代半ばにロンドン近郊で生まれ、19世紀末に至るまで、当時の世界最先端の地、ロンドンで激動の時代を生きた。日本では天保の大飢饉の時期から、明治維新を経て、明治29年までの時期に相当する。19世紀イギリスの詩人、デザイナー、マルクス主義者(社会主義者)。聖職者を目指していたが、ラスキンの思想に感化され、その道を捨てた。多方面で精力的に活動し「モダンデザインの父」と呼ばれる。
 父のウィリアム・モリス(同名の父)は金融業を営む実業家で、子モリスは中産階級の家庭に育った。オックスフォード大学エクセター・カレッジに入学。教会の牧師のための教育を受け始め、そこで生涯の友人・協力者となるエドワード・バーン=ジョーンズ(画家)に出会う。二人はジョン・ラスキンの『ヴェネツィアの石』に共感。
 また、画家集団ラファエル前派の存在を知り、1855年、中世美術の勉強のため二人はフランスを訪れる。建築・絵画の勉強や修行をし、最終的にモリスは装飾美術(デザイン)に身を捧げることを決心。また、建築事務所に属していた際に、後にレッドハウスの設計を任せるフィリップ・ウェッブ(建築家)とも親友になった。
 その後、生活を健全な工芸で満たそうというモリスの理想を仲間達と実現した赤レンガの家「レッドハウス」が契機となり、1861年、総合生活芸術を活動のコンセプトとし、職人による手仕事の復興を目指したモリス・マーシャル・フォークナー商会を設立。商会の活動は成功し、生活と芸術を一致させようとするデザイン思想は20世紀のモダンデザインの源流になった。
 晩年になり、モリスは書物の私家版印刷工房「ケルムスコット・プレス」を創設し、全53書目、66冊の書物を出版。「書物というものはすべて〈美しい物〉であるべきだ」という願いのもとに美しい活字・用紙・印刷・装丁で製本することを実証した。その集大成としてバーン=ジョーンズの挿絵、モリス自身による題扉、大型縁飾り、装飾頭文字のデザインの「ジェフリー・チョーサー作品集」がある。

引用:ウィリアム・モリスの世界 - Brain Trust Inc.

レッドハウス

 1859年に結婚したモリスが構想した新居。漆喰塗を行わず、赤レンガの質感そのままに見せたために、レッドハウスと呼ばれる。ジョン・ラスキンに影響を受けており、外観は中世ゴシック建築調。生活用品すべてにウェッブらモリスの友人によって作られ、生活を健全な工芸で満たそうというモリスの理想が実現された。この体験がモリスの工芸運動の発端となっている。彼の名言に「役に立たないものや、美しいとは思わないものを家に置いてはならない」がある。非西欧圏の装飾文様を多く紹介していることと、デザインの源泉である自然を観察することを示唆している点が興味深い。また19世紀後半にかけて出版された装飾芸術に関する一連の著作物を生むきっかけともなっている。
 設計はフィリップ・ウェッブ、内装や家具はモリス、バーン=ジョーンズは絵を描き、仲間たちの共同作業により完成。この作業が契機となり、仲間たち7人の共同出資による壁面装飾、装飾彫刻、ステンドグラス、金属製品、家具の5つのジャンルを総合生活芸術とし活動する商会(モリス・マーシャル・フォークナー商会、後のモリス商会)が1861年、ロンドンのレッド・ライオン・スクエアに設立された。

モリス・マーシャル・フォークナー商会

レッドハウスでの共同作業を契機にモリスを中心とした7人の共同出資で設立。発足当初から壁面装飾、装飾彫刻、ステンドグラス、金属製品、家具の 5つのジャンルを主要製品とし、品質管理は主としてモリスが行った。産業革命による工芸品の品質低下を危惧し、職人による手仕事の復興を目指した商会の活動は、1862 年の第 2回ロンドン万博に「ステンドグラス」と「刺繍と絵付け家具」のコーナーを設け受賞、一点制作から量産品の委託生産に乗り出すように なった。セント・ジェイムジズ宮殿の「武具の間」と「タペストリーの間」やサウス・ケンジントン博物館「緑の食堂」の内装等を手掛け、活動は一層活発となった。

モリス商会

1875 年に単独経営によるモリス商会へ改組してから、テキスタイル部門を強化。家庭向けの室内装飾品としての需要の高まりとともに、商会の活動は拡大していった。1878年にはジョン・ヘンリー・ダールを弟子に加え、ダールはモリス没後に商会のアート・ディレ クターとなった。
1881 年、中断していた染色実験を再開、インディゴ抜染法を完成。 染めに適した軟水のウォンドル川の流れる同地を見つけたのは、友人で陶芸家のウィリアム・ド・モーガン。染め職人トマス・ウォードルと共同して、モリスは中世からの天然染料による染色法によるテキスタイルの制作に集中するとともに、パターン・デザイン理論の発展と実践に力を注いだ。

美しい本

晩年になり、私家版印刷工房「ケルムスコット・プレス」を創設。『輝く平原の物語』を先陣とし、1898年発行の『ケルムスコット・プレス設立趣意書』を最後とする、全53書目、66冊の書物を出版。「書物というものはすべて〈美しい物〉であるべきだ」という願いのもとに美しい活字で、美しい用紙に印刷され、美しい装丁で製本することを実証した。
1896年刊行のケルムスコット・プレス版『ジェフリー・チョーサー作品集』は中世イギリス最高の詩人ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』をテキストとし、バーン=ジョーンズの挿絵、モリス自身が題扉、大型縁飾り、装飾頭文字をデザインしたもので、それはモリスの目指す中世の時代の精神を忠実に実証した集大成の書物とされている。

アーサー・マクマードゥ (Arthur Mackmurdo) 1851-1942

イギリスの建築家、デザイナー。センチュリーギルドの創設者。多才な人物で、建築設計、装飾美術の他、晩年は貨幣制度改革に関する著述も行う。ジョン・ラスキンのギルドに関する著作『フォルス・クラヴィゲラ』に感化される。また、1875年に建築家として出発した彼は、ウィリアム・モリスの講義を聞き、その後1877年にモリスに会い、工芸に興味を持った。モリスに影響され、建築の細部とも言える石彫、テラコッタの成形、真鍮の打ち出し細工、刺繍や家具の制作に打ち込む様になり、それらの制作のため、彼のもとに芸術家や職人が集められた。それらの活動、メンバーが集まった事が契機になり1882年、センチュリー・ギルドが結成された。これはアーツアンドクラフツ運動の代表的ギルドであり、私的に運営された最初のギルドと言われている。
マクマードゥは家具調度、壁紙、織物などに先例を見ないほど流線的な線を用いた、1882年にデザインされた椅子や1883年の「レンの市教会」の挿絵は炎の様に大きくゆれる線条が全面を占めるが、これは新しい造形の表現方法の転換点とみなされている程である。これらの流線的なデザインは後のアール・ヌーヴォー誕生の一端を担っている。また、センチュリー・ギルドの哲学と目的を広報のために創刊した季刊芸術誌『ホビー・ホース』は、現代美術を取り上げた初めての本であり、その後に類似物が多数創刊される先駆けとなった。また、後にグラフィック・ジャーナリズムと呼ばれる物の母体となり、活字とグラフィックデザインと印刷へ興味を向ける前兆となった。
マックマードゥの活動はラスキン、モリスから大いに影響を受けていたが、ギルド機関誌『ホビー・ホース』は逆にモリスの興味を引き立て、モリスのプライベート・プレスであるケルムスコット・プレスの設立への喚起となった。

引用:ウィリアム・モリスの世界 - Brain Trust Inc.

ギルド

職人やアーティストのための組合のような集団であり、19世紀末から20世紀初頭にかけてイギリスやアメリカで登場した。その目的は、手工芸の再評価と、大量生産によって失われつつあった職人技術の保護であった。ギルドは、職人やアーティストが互いに協力し、技術や経験を共有する場として機能し、また、メンバーが制作した製品を展示し、販売する場を提供した。ギルドの役割は、職人やアーティストの支援と育成にあり、技術や経験を共有し、制作のプロセスで必要な素材や道具を提供し、教育プログラムを提供することで、メンバーの技術やスキルを向上させた。また、ギルドは、手工芸品の需要を増やすために、広告や販促活動を行い、手工芸品を市場に供給することで、手工芸の価値を高めることを目指した。そして、アーツアンドクラフツ運動におけるギルドは、現代のクラフト運動やアーティストのコミュニティーの形成に影響を与えたのである。

ウォルター・クレイン (Walter Crane) (1845-1915)

イギリスの芸術家であり、絵画、イラストレーション、児童書、陶磁器タイル、その他多くの装飾芸術を制作し、アーツ・アンド・クラフツに深く関わった。ラファエル前派の影響を受けており、ジョン・ラスキンの信望者でもあった。13歳の時に著名な彫版師ウィリアム・ジェイムズ・リントンに弟子入りし、3年間工房で働いた。この工房で彼は同時代のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレー、ジョン・テニエルや、イタリア・ルネッサンス美術の作品などを彫版し、経験を積んだ。大英博物館に収蔵されていたエルギン・マーブルに深い影響を受けるとともに、浮世絵の研究も行い、その技法を子供向けのトイ・ブックス(童謡やおとぎ話を扱った児童向け絵本)に生かし新たな流行を生み出した。1864年から1876年にかけて、彫版師エドマンド・エヴァンズと組んで3色刷りのトイ・ブックスを多数制作し大きな成功を収めており、とくに『カエルの王子さま』(1874年)から始まるシリーズには、画面構成や大胆な平塗りなど、浮世絵の影響が強く現れている。絵本の基礎を築いたと言われている。
1880年代よりクレインはウィリアム・モリスの影響から社会主義運動に関わり、社会のすべての階層にデザインを浸透させようとした。この観点から彼は織物や壁紙、室内装飾などを手がけることに没頭し、1884年、工芸の復興を目指して、美術家同盟(Art Workers Guild)を結成。また、1888年、自身が設立した「アーツ・アンド・クラフツ展示協会」のために精力的に活動し、大芸術(絵画・彫刻)中心の王立美術アカデミーの排他的な態度に対抗し、定期的な装飾美術展を開催した。「アーツ・アンド・クラフツ運動」という言葉が認知されることとなった。

出典:Wikipedia