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アール・ヌーボー運動とその意義

アール・ヌーボーのスタイルの特徴

19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて、ヨーロッパ各国に広がった国際的な美術運動。フランス語で「新しい芸術」という意味。 産業革命によって、機械で大量生産された粗悪の製品が出回ったことに反して、職人の手仕事を見直そうとイギリスで興った「アーツ・アンド・クラフツ運動」に端を発したもの。芸術家や職人の感性や技術を重んじ、良質な実用品を社会に送り出すことを目指したアール・ヌーヴォーは、「絵画」や「建築」といった芸術の縦割りを否定し、家具や食器、建築、商業ポスターまでも含んだ総合芸術となった。

引用:アール・ヌーヴォーとは?様式・デザインの特徴「アール・デコ」との違いについて分かりやすく解説!

応用美術の見直し

当時の粗悪な大量生産品への反発から、職人の手による繊細で入り組んだ装飾に力を注ぎ、芸術性・独自性を高めるため、斬新な素材を取り入れた新しい試みを多用した。その結果、「工芸は芸術に劣る」という従来の概念を壊し、家具・食器などの工芸 品やグラフィックアートも「アール・ヌーヴォー様式の芸術」として高められていった

※応用美術

応用美術とは美術を日用品や行事などへ応用することを指し、これをデザインという。ファインアートが見るものに知的興奮や理論的な感覚を与えるのに対し、応用美術ではデザインを組み入れた、例えばコップ、雑誌、装飾的な公園のベンチなど実用的な物への創作的発想である。
インダストリアルデザイン、グラフィックデザイン、ファッションデザイン、インテリアデザイン、装飾美術、実用美術などの分野は応用美術と考えられている。創造的、抽象的な環境において、建築や写真も応用美術と考えられる。多くの応用美術はコレクションすることが可能で、陶磁器、織物、宝飾品、ガラス製品、家具、玩具、車、エレキギター、その他、映画のポスターや古い広告など、商業環境での様々な形式の画像などもその対象となる。

花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる装飾性

草花などの植物や、昆虫など自然界の有機物が多いのが特徴。自然のモチーフを組み合わせ、自由な曲線で表現した装飾的なデザインが「アール・ヌーヴォーのデザイン」と言える。アール・ヌーヴォーは絵画、彫刻だけでなく生活を取り巻くすべてが芸 術の対象となったので、建築物の外壁、内装、インテリア、食器、装飾品などあらゆるものに自然のモチーフが取り入れられた

鉄やガラスといった当時の新素材の利用

当時新しい素材であった変幻自在の鉄を使うことによって、自由で軽やかなデザイン表現が可能になり、柱や梁、階段の手摺などさまざまなものに使用された。ガラスや宝石といった異なる素材と組み合わせたデザインも試みられた。これらは熟練された職人の高度な技術があって、初めて可能になるデザインであり、アール・ヌーヴォーの芸術家は「機械ではできない繊細なデザイン」を常に追求した。

日本美術の影響を受けた

曲線模様、有機的な形体、アシンメトリーのレイアウト、平面的表現などジャポニスムの影響を受け、自然の造形を生かした繊細な曲線美が取り入れられた。

アール・ヌーボー「フランス」

パリでは 1895 年にサミュエル・ビングがアールヌーヴォー の画廊を開く。1900 年のパリ万博は、「アール・ヌーヴォーの万博」といわれ、 以降、パリは「芸術の都」と呼ばれるようになる。

エクトール・ギマール (1867-1942)

フランスの建築家で、同国におけるアール・ヌーヴォーの代表者。植物の茎を思わせるオーガニックな形態調和、およびスタイルの連続性を追求した。パリのメトロ鉄道システムの入口のデザインで最もよく知られており、鉄道駅の入り口に芸術的で曲線的なアールヌーボー様式のエレメントを取り入れ、その後、私邸やホテル、商業ビルなどにも同様のスタイルを採用した。
彼の作品は、曲線的な鉄のフレームにガラスを挿入したドアや窓、美しい装飾的な手すり、カーテンウォール、モザイクタイル、カラフルなガラス窓、軟膏状の装飾品など、特徴的な曲線を持っている
アールヌーボー運動の他の著名なアーティストや建築家と一緒に、パリのエコール・ド・ナンデシコール・デ・ボザールやエコール・デ・シャルル・ルフェーブル・ド・ランシーなどの美術学校で教鞭をとった。

引用:Wikipedia -「妻アドリーヌとエクトール、1910年頃」

パリ・メトロ出入口 (1900年)

パリの地下鉄は1900年につくられた。地下鉄の施設の意匠は、当時、アール・ヌーヴォーの建築家として名を馳せていた建築家エクトール・ギマールが担当した。ギマールが設計した地下鉄の入り口は、繭のような形状に、花弁のようなガラスの庇が覆い被り、建物には蔦のような意匠の鋳鉄が絡みついているようなものであった。1900年はパリ万博を開催した時期とも重なり、当時の新素材である鉄やガラスを利用したことが特徴であり、それはパリの人々だけでなく、パリを訪れた多くの人に驚嘆をもって迎えられた。
しかし、第一次世界大戦後にモダンデザインが普及し、アール・ヌーヴォーは時代遅れなデザインとして忘れ去られる。ギマール設計の地下鉄駅も二駅(16区にあるポルト・ドフィーヌ駅と18区のアベス駅)を残してすべて取り壊されてしまった。1960年代になると、今度はアール・ヌーヴォーのリバイバル運動がアメリカで起き、それが再評価されるようになると、パリのギマールが設計した地下鉄駅も見直され、それが複製されることになる。

カステル・ベランジェ (1898年)

エクトール・ギマールが28歳の時に6階建て36戸のアパルトマンとして設計した。この建築物は、36戸すべてのプランが異なり、その部屋割りを反映して外観には砂岩、煉瓦、タイル、鉄と、さまざまな素材を寄せ集めた形となった。さらに、ベランダや換気口などには奇怪な生物のような鋳鉄細工まで付けられた。このような統一感のない外観や薄気味悪い内装パネルなどから、アパートの名をもじって「迷惑をかける(déranger)」おかしな館と世間からは当初冷たい批判を浴びたが、ギマールの名は急速に知られることになり、多くの注文が舞い込んだ。彼は自身の美学――調和、およびスタイルの連続性(アール・ヌーヴォーの主な理想)――の研究を以前にまして推し進めることができるようになった。

ルネ・ラリック (1860-1945)

19世紀から20世紀のフランスのガラス工芸家、金細工師、宝飾デザイナーアール・ヌーヴォー、アール・デコの両時代にわたって活躍した作家。前半生はアール・ヌーヴォー様式の金細工師・宝飾デザイナーとして活躍し、その分野で名声を得ていた。その後、ガラス工芸と出会い、香水瓶のデザインに始まり、ガラス彫刻、ガラスの花瓶などの制作でも名声を得た。自然美をモチーフとしたデザインにこだわっており、表現方法は当時盛り上がりを見せていたジャポニスムやボタニカルアートなどさまざまだが、彼の作品には自然の美しさを追求し、その意味を問う姿勢が垣間見える。

引用:Wikipedia
引用:古美術 八光堂

独創性の高いジュエリー作品

ラリックの制作したジュエリー作品の特長は、デザイン性の高さにあるといえる。特に1900年のパリ万博に出品された「蜻蛉の精」は、精巧な作りと独創的なデザインで大きな評判を呼んだ。それまでジュエリー作品の価値は、使用されているジュエリーで決まるのが常識だったが、ラリックの作品はそれを覆し、創造性の高さ・技術の高さもジュエリーの価値基準になりえるという前例を作った。

宝石に匹敵する精巧なガラス作品

ガラス作家に転向してからも、ラリックは宝石のように美しいガラスパーツを用いたジュエリーや、ガラスに金や銀・エナメルなどの異素材を組み合わせた豪華な装飾品などを制作した。また、当時普及し始めた電気とガラス製の照明器具をあわせて、きらびやかで美しい作品を生み出した。1925年のパリ万博で出品されたガラスの噴水塔もそのひとつ。透明なガラスに光が透ける美しさに、当時の人々は魅了された。

アール・ヌーヴォーの終焉とルネ・ラリックの転換

1900年のパリ万博以降、アール・ヌーヴォー様式は急速に衰退し、アール・デコの時代へと移り変わった。服飾デザイナーのポール・ポワレがコルセットを用いないドレスを発表したことをきっかけに、上流階級の女性たちはシンプルなスタイルを好むようになり、アール・ヌーヴォー様式の装飾品の需要も衰退し、ラリックも大きな打撃を受けることとなった。そこでラリックは、これまでの宝石に変わってガラスを使用したジュエリーの制作を始めた。
ラリックがガラス作家として成功したのは、1907年に香水商のフランソワ・コティの依頼で、コティ社の香水瓶のデザインを手掛けたのがきっかけでした。ただのガラス製の瓶ではなく、香水のコンセプトに合わせた美しいデザインの瓶に香水を入れて販売するというのは、これまでにない斬新な試みだったため、大きな注目を集め大変な人気を博した。
アール・ヌーヴォーの象徴的存在にまで上り詰めたラリックだったが、宝飾作家としてのキャリアと決別し、パリにガラス工房を借り、1912年には本格的にガラス工芸品の制作を始め、ガラス工芸の制作に専念するようになる。
1925年に開かれたパリ万博は、通称アール・デコ展と呼ばれ、アール・デコ様式(アール・ヌーボーの次に流行する様式)の頂点ともいえる催しであった。そこでラリックは、ガラス部門の責任者を務め、自社のパビリオンを展開。高さ5メートルにもおよぶガラスの噴水塔を出品し、人々を魅了した。これを機に、ラリックはアール・デコのガラス作家として第二の成功をおさめた。

引用:古美術 八光堂

エミール・ガレ (1846-1904)

フランス・ロレーヌ地方のナンシーを拠点として、ガラス工芸、陶器、家具など幅広い分野で独創的な工芸作品を制作した。ガレのガラス工芸は、ガラス工芸の5千年の歴史の中でも最高傑作とされている。1878年のパリ万国博覧会では、ガラスと陶器で銀賞と銅賞を受賞し、その実力が評価され、1889年のパリ万博ではガラス部門でのグランプリを受賞し、国際的な名声を得た。ジャポニスムの影響を受け、積極的に日本美術の意匠や要素を取り入れ、独自の表現を確立。梅や桜の文様を散らしたデザインなども残している。また、ガラスに彫刻を施す「グラヴュール技法」を取り入れ、立体彫刻の要素をガラス工芸に取り入れた。

引用:Wikipedia
引用:TRANS.BIz

グラヴュール技法

ガレ作品の注目すべき技法に「グラヴュール技法」がある。ガラスに彫刻を施すこの技法は、当時のガラス工芸では主流ではなかったが、立体彫刻の要素をガラス工芸に取り入れるためにガレは積極的に用いた。
グラヴュール技法では、ガラス器の表面を研磨することにより繊細な文様や文字などを彫刻することができ、一方で粗いノミの彫りのような表現を行うこともできた。ガレのガラス工芸は、優れた彫刻作品でもあったのである。
1889年のパリ万博でグランプリを獲得した作品『オルフェウスとエウリディケ』の杯は、ギリシャ神話の一場面をグラヴェール技法によって彫刻的に表現した黒いガラスシリーズの作品だった。
ガレの技法は、グラヴェール技法の他にも、カメオ彫り、エナメル彩、マルケットリー技法、スフレ技法、エッチングなど、あらゆる技法を取り入れ、新しい表現を模索した。

ロートレック (1864-1901)

13・4歳の骨折が元で足が成長せず短身長であった。自身が身体障害者として差別を受けていたこともあってか、娼婦、踊り子のような夜の世界の女性に共感。パリの「ムーラン・ルージュ」をはじめとしたダンスホール、酒場などに入り浸り、娼婦たちと頻繁に関係を持つデカダンな生活を送った。彼女らを愛情のこもった筆致で描き、リトグラフを制作し始め、ポスターを芸術の域にまで高めた。「小さき男(仏 : Petit Homme)」、「偉大なる芸術家(仏 : Grand Artiste)」と形容される。また、脚の不自由だった彼は、しばしば疾走する馬の絵を描いている。彼のポスターやリトグラフは日本美術から強い影響を受けており、自身のイニシャルを漢字のようにアレンジしたサインも用いた。

引用:Wikipedia

ジャンヌ・アヴリル

アルコール依存症だった彼女の母親はクルチザンヌ(高級娼婦)で、幼少期から虐待を受けていたため、13歳で家を飛び出し、その後、病院で精神的な治療を受けて、16歳で自由の身に。その後、ダンサーとして成功し1890年代のモンマルトルのスター的存在に登りつめた。
名門貴族の家に生まれたロートレックとは彼の死まで深い友情で結ばれていて、彼は多くのポスターやポートレイトを彼女をモデルに描いている。

引用:Vogue Japan

アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)

多くのポスター、装飾パネル、カレンダー等を制作した。ミュシャの作品は星、宝石、花(植物)などの様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴である。特権階級のための芸術至上主義的表現ではなく、常に民衆とともに在ることであった。そのためにはイラストやポスター等の商業デザインは格好の手段である。普通の人々を美のもつ力で啓発するために、ミュシャは様々な手法を考案した。エレガントな女性の姿に花などの装飾モチーフを組み合わせ、曲線や円を多用しながら構築された独特な構図の形式―ミュシャ様式―は、画家が人々とコミュニケートするための「言語」であった。

引用:Wikipedia

ポスター画家(イラストレーター)

挿絵画家として知られていたミュシャを、一躍ポスター画家として有名にしたのがこの作品。「女神」と称えられた大女優サラ・ベルナールの立ち姿が、等身大で、ステージから切り取ったような迫力で描かれている。作家の画力を示す流麗な線、パステル調の上品な色遣い、そして主題の精神面を表現しようとするミュシャの作風は、当時のパリの大衆が見慣れていた宣伝ポスターとは一線を画していた。

引用:Bunkamuraミュージアム-みんなのミュシャ

祖国チェコスロバキアへの貢献

アメリカの富豪チャールズ・クレーンから金銭的な援助を受けることに成功し、財政的な心配のなくなったミュシャは1910年、故国であるチェコに帰国し、20点の絵画から成る連作『スラヴ叙事詩』を制作する。この一連の作品はスラヴ語派の諸言語を話す人々が古代は統一民族であったという近代の空想「汎スラヴ主義」を基にしたもので、この空想上の民族「スラヴ民族」の想像上の歴史を描いたものである。スメタナの連作交響詩『わが祖国』を聴いたことで、構想を抱いたといわれ、完成までおよそ20年を要している。
また、この時期にはチェコ人の愛国心を喚起する多くの作品群やプラハ市庁舎のホール装飾等を手がけている。1918年にハプスブルク家が支配するオーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキアが成立すると、新国家のために紙幣や切手、国章などのデザインを行った。財政難の新しい国を慮って、デザインは無報酬で請け負ったという。
1939年3月、ナチス・ドイツによってチェコスロバキアは解体された。プラハに入城したドイツ軍によりミュシャは「絵画がチェコ国民の愛国心を刺激する」という理由で逮捕された。間も無く釈放されたものの、4ヶ月後の7月に体調を崩し死去した。
戦後に成立した共産党政権は、ミュシャと愛国心の結びつきを警戒し、彼の存在を黙殺した。しかし、民衆の中でミュシャへの敬愛は生き続け、プラハの春翌年の1969年には、ミュシャの絵画がプリントされた記念切手数種が制作されている。また世界的にも、1960年代以降のアール・ヌーヴォー再評価とともに、改めて高い評価を受け、現在はチェコを代表する国民的画家として認知されている。

引用:Wikipedia