1884年以降、当時ベルギーにおいて、工芸品を芸術品に高める運動を行う。アール・ヌーボーの曲線的な美学だけでなく、その後につづくアー ル・デコの潮流を思わせる直線的な美しさもいち早く取り入れており、モダンデザインにつながる建築を生み出して行く。
画家として出発したが疑問を抱き、生活環境の美的形成こそが造形家の使命だと考え工芸・建築家に転向した。そこでの彼はモリスの思想を継承しつつも、モリスと違い、現代が技術の時代であるということを肯定した。そして彼は、「これ以前に知られていなかった美の特有の性質」を研究していった。1897年にヴェルデはドレスデン工芸展(ドイツ)に出展し、これが独自な曲線表現として好評を得ることとなり、アール・ヌーボの代表者の一人とみなされた。さらにアール・ヌーヴォーをアール・デコ、モダンデザインへと展開した。
1870年代にパリに日本の浮世絵版画と工芸品を扱う店をオープンして成功したサミュエル・ビング。そのお店「アール・ヌーボー館」のインテリアを担当。アール・ ヌーボー全盛期だったフランスでは酷評されたが、ドイツなどでは絶賛された。
1902年、私的教育機関あるいは実験所を設立し、これを「工芸ゼミナール」と名付けた。1906 年にはこのゼミナールを発展させ大公立工芸学校を設立し、校長に就任した。なお工芸学校の校舎はヴァン・デ・ヴェルデ自身の設計に よるものであり、また、この工芸学校と道路を隔ててほぼ向かい合っていた大公立美術学校が後に合併されバウ ハウス (ヴァイマル国立バウハウス ) となる。
ベルギーの建築家。非対称的な曲線模様を特徴としたアール・ヌーヴォー様式を装飾芸術から建築へと取り込んだ最初の建築家。1893年に完成させたタッセル邸(タッセル教授の依頼による住宅)は植物をモチーフとした有機的な曲線形状を鋳鉄で作り上げて内装装飾とし、アール・ヌーヴォー建築の最初の成功例となった。華やかで緻密な装飾と自然光に彩られた室内ではあるが、石造りのファサードの奥に隠されているため、落ち着いた街並みの中に溶け込んでいる。この新しい建築様式に質素な鉄と石のファサードの中に、複雑な鉄のインテリアを閉じこめる方式を踏襲していった。
ブリュッセル自由大学の教授タッセルの住宅。オルタの初期の建築の1つ(正確には2度目の住宅現場)であり、建築にアール・ヌーヴォーを融合させた世界最初の例である。ブリュッセルで古典的な間取りを完全に打破した最初の住宅でもあったので現在でも抜きん出た作品となっている。
オルタの自宅兼仕事場として、1898年から1901年にかけて建てられた。建物だけでなく、壁画やモザイク装飾などの内装、家具などのインテリアに至るまで、すべてオルタが設計しました。現在オルタ邸は、美術館として一般に公開されている。
フランスほどアール・ヌーボーが受け入れられたわけではないが、自然をモチーフとしたデザインが多く、その中でも特に植物が好まれた。より曲線的で柔らかなラインが好まれ、女性像や女性の髪型がモチーフとして用いられた。建築やインテリアにも女性的な曲線や優雅な装飾が多く見られ、さらに、統一感のあるデザインが重視された。建築の外観から内装まで、さらに家具や装飾品なども統一されたデザインで作られているものが多く見られる。また、社会的な不平等や労働者の権利の問題を扱った芸術作品が見られ、社会的なメッセージが込められた作品も作られた。
英国の建築家、家具・テキスタイルデザイナー。1900年前後の20年間、英国の建築・デザイン界の中心人物であった。 壁紙や家具のデザインにおいてモダンスタイル ( イギリスのアールヌーボー様式 ) に重要な貢献をはたすと共に、カント リーハウスの建築家としても有名。
現在はウィンダミア モーター ボート レーシング クラブの本部
テラスの眺め
アールヌーボーの影響を受けたが、装飾的な複雑さだけではなく、形と機能に関心を持ち、家具のデザインはシンプル且つ機能的で、装飾は控えめであった。また、木材を塗料で覆う一般的な技術に反して、木材を自然な仕上がりにしておくべきだと提唱し、木材そのものの質感を大切にした。「スワンの椅子」などはオーク材そのままの仕上げになっている。
19世紀末の芸術家集団「4人組」を中心としてヨーロッパ各地からグラスゴー(スコットランド)に集まった建築家・デザイナー等のグループである。「4人組」はチャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868年-1928年)、マーガレット・マクドナルド、フランシス・マクドナルド、ハーバード・マックネア。家具、ポスター、絵画作品、銀細工の時計、装飾パネルなどを手掛けた。1893年に創刊された美術工芸の雑誌「ステューディオ」は1897年、グラスゴー派の活動を大いに紹介。この記事の掲載が、同じ年のウィーンの美術家と工芸家によって結成されたウィーン分離派の造形運動に影響を及ぼし、その後の1900年にダルムシュタット芸術家村で開催されたウィーン・ゼツェッション展を通じてマッキントッシュの名が広まった。
グラスゴー派の作品の特徴は優美で簡素、華奢でありながら、緊張感のある合理主義的な室内装飾の先駆けとなっている。また、垂直線の強調と、抽象化された装飾、不気味で神秘的な人間と植物のイメージの多用も含まれており、これらの曲線のイメージは、後の大陸におけるアール・ヌーヴォーと類似していたが、アーツ・アンド・クラフツ展覧会では好意的には受け止められなかった。しかし、雑誌「スティーディオ」によって、名が知れることとなる。グラスゴー派もまた、日本のデザインの影響を受けたとされている。
1892年にミュンヘン分離派が結成され、新たな芸術を志向する活動が展開される。雑誌ユーゲントの創刊により、装飾文字の考案や曲線を多用した表紙絵や挿絵による斬新なグラフィックデザインの道が開かれ、日常生活と芸術の距離を縮める試みがなされた。「マチルダの丘」(ダルムシュタット)にドイツ・オーストリアから7名の画家や建築家を招き芸術家村が作られた。
19世紀末のミュンヘンで始まった芸術運動ユーゲント・シュティールの一グループ。ウィーン分離派、ベルリン分離派などに先駆けて1892年に結成された。保守的なミュンヘン芸術家組合から分離する形で誕生したため、この名がついており、現在も存在している。官営事業化した展覧会や閉鎖的な旧来の美術機構とは別に、彼ら自身の自由な発表の場や活動組織を持つことが第一の目的であった。絵画や工芸を中心に活動を展開し、伝統にとらわれない芸術表現を模索した。モダン芸術運動の拡大を標榜し、数々の国際展覧会を開催している。ナチス政権下の弾圧のため1938年に一度解散を余儀なくされたが、第二次世界大戦直後に再結成され現在に至っている。
1896年に刊行された雑誌『ユーゲント』(DieJugend)に代表されるドイツ語圏の世紀末美術の傾向を指す。ユーゲントは若さ、シュティールは様式を意味するドイツ語で、アール・ヌーヴォーと意を同じくし、「青春様式」と表記されることもある。19世紀末から20世紀の初頭にかけて展開し、自然主義的なデザインや装飾性を重視し、曲線や植物のモチーフを多用する。建築においては、アール・ヌーヴォーと同様に鉄筋コンクリート構造や大きな窓ガラスを用い、自然光を取り入れたり、空間を開放的にしたりすることが特徴で、絵画や彫刻、建築、室内装飾、家具デザイン、織物、印刷物から文学・音楽などに取り入れられた。
19世紀末頃になると新古典主義などに代表される歴史回帰・折衷様式は「悪趣味」と言われるようになり、芸術家たちはそれまでにない新しいスタイルを求めるようになった。フランツ・フォン・シュトゥックらによって1892年にミュンヘン分離派が結成され、旧来の芸術を批判し新たな芸術を志向する活動が展開される。この運動はその後ベルリンやオーストリアにも波及し、ベルリン分離派(1899年結成)やウィーン分離派(1897年結成)の活動につながった。
また、ユーゲント・シュティールは、機能性や実用性を重視するアーツ・アンド・クラフツ運動とは異なり、芸術性を追求することが主眼であった。そのため、装飾的な要素が多用された家具や器具、書籍やポスターなど、美術的な価値が高いデザインが多数生み出された。
ユーゲント・シュティールは、第一次世界大戦後には影響力を失ったが、その後のデザインや建築の発展に大きな影響を与え、現代に至るまで多くの作品が愛され続けている。
雑誌『ユーゲント』1896年創刊号から1940年まで刊行されたとの記録が残っている。この雑誌のフルネームは、“Jugend. Mu nchner Wochenschrift fu r Kunst und
Leben”。直訳すると、『青春‒芸術と生活のためのミュンヘン週刊雑誌』ということになる。副題の「芸術と生活」という言葉に、この時代のテーマが浮き彫りにされており、日常生活と芸術の距離を可能な限り縮めるというテーマである。それは日常生活に芸術を取り込むという意図と、芸術に生活的要素を組み込むという逆の意図を相互に交差させようとしているのである。
また、ここで言われている「青春」は年齢に一切関係がない。「時の移ろい」から超越し「私たちの心の奥深くに永久の春を生み、この世の憂いや苦悩を取り去ってくれる聖なる力を持つ青春」である。
『ユーゲント』は、さまざまな装飾文字の考案、表紙絵や挿絵に見られる曲線を多用した独自の画風などの斬新なグラフィック・デザインの道を切り開いた。それらは、「芸術と生活」を媒介し、二つの領域をダイナミックに交差させる新しい表現世界の発見であった。『ユーゲント』の人気の秘密は、斬新なデザインと文字表現などを巧みに組み合わせる卓越した感性にある。
大英帝国ヴィクトリア女王の孫にあたるエルンスト・ルードビッヒがエッセン・ダルムシュタット大公となり、1899年にドイツやオーストリアから7名の画家や建築家を招き芸術活動を開始した。オーストリア分離派のヨーゼフ・オルブリッヒ、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデや、新進のピーター・ベーレンスらはそれぞれの自宅を設計して「芸術家村」を作り上げ「ルードビッヒ館1901」やルードビッヒ大公とマティルダ妃の成婚を記念する「大公成婚記念塔1905」などが建てられ、この一帯がユーゲントシュティル美術のメッカとなった。成婚記念塔の横には、ロシア正教会の黄金のドームが光り輝いている。
ダルムシュタットは、フランクフルトの北約30kmに位置する人口約15万人の中都市で、ヘッセン州ではフランクフルト、ヴィースバーデン、カッセルに次ぐ。学術都市として知られており、1877年に創設された工科大学と3つの専門大学合わせて3万人を超える学生や多くの研究者が活動している
ダルムシュタットの象徴的建造物である、マチルダの丘のホッホツァイト塔。塔の先端は手のような形になっており、これは結婚式でルート ヴィヒ大公が宣誓をした際の手をモチーフにしていると言われ ている。
初めはミュンヘンで画家・グラフィックデザイナーとして活動し、1892年、ミュンヘン分離派に参加。建築家に転じ、ヘルマン・ムテジウスのドイツ工作連盟に参加。
1907年、ベルリンに事務所を開設。電機メーカーAEGのデザイン顧問に就き、同社タービン工場の設計を手がけた。これはモダニズム建築初期の代表的作品になった。また、ガス給湯器や照明器具、家電、文房具、タイプライターといった工業製品のデザインも手がけるなど、インダストリアルデザイナーとしても活躍した。彼のデザインした会社ロゴは各種のAEG製品に使用され、これがコーポレートアイデンティティの先駆けとなった。
※AEG:ドイツの電機メーカー。Allgemeine Elektricitäts-Gesellschaft(アルゲマイネ・エレクトリツィテート・ゲゼ ルシャフト)の略
ペーター・ベーレンスがデザインしたブランドロゴ
デザインが平坦な形といっそうの単純さへと向かい、正方形・長方形・円を反復し、組み合わせて用いられ、モダンデザインへの道を切り開いていった。1897年にウィーンで画家グスタフ・クリムトを中心に結成された新進芸術家のグループ「ウィーン分離派」が結成され、独自の展示施設を持ち、展覧会を開催。新しい造形表現を追求し、絵画・彫刻・工芸・建築を通して総合芸術を志向した
1897年ウィーンで画家グスタフ・クリムトを中心に結成された新進芸術家のグループ。独自の展示施設を持ち、独自に展覧会を開催した。クリムトらは分離派での活動を通して新しい造形表現を追求。ウィーン分離派はミュンヘン分離派(1892年)の結成から大きな影響を受けているが、総合芸術を志向していた点に特徴がある。
世紀末のウィーンで展示会場を持っていたのはアカデミックな芸術家団体クンストラーハウスという芸術家団体であった。ウィーンの美術界は印象派の影響もほとんど見られず保守的であった。クンストラーハウスの保守性に不満を持つ若手芸術家らはクリムトを中心に造形美術協会を結成した。クンストラーハウスがこれを認めなかったため、クンストラーハウスを脱退。こうして生まれたウィーン分離派は絵画、彫刻、工芸、建築などの芸術家が参加し、会長にはクリムトが就任した。
1902年の展覧会での集合写真左から右に、アントン・シュタルク、グスタフ・クリムト(椅子)、コロマン・モーザー(クリムトの前、帽子着用)、アドルフ・ベーム、マクシミリアン・レンツ(横臥の姿勢)、エルンスト・シュテア(帽子)、ヴィルヘルム・リスト、エミール・オルリック(座った姿勢)、マクシミリアン・クルツウェイル(つば無し帽着用)、レオポルド・シュトルバ、カール・モル(横たわった姿勢)、ルドルフ・バッヒャー。
セセッション館、または、分離派会館(ぶんりはかいかん)、オーストリア・ウィーンにある「ウィーン分離派(セセッション)」の展示施設。建築家ヨゼフ・マリア・オルブリッヒの設計により、1897年から1898年にかけて建設された。
半身半獣のミノタウロス(ウィーン美術界)を刺し殺す英雄テセウス(分離派)。検閲によってテセウスの前景に枝が付け加えられている。
オルブリヒ自身が設計した分離派館。異教の寺院をモチーフにしており、「マフディーの霊廟」とあだ名された。
3兄弟で「芸術家商会」を設立。劇場装飾を中心に活躍。1886年~1888年までウィーンのブルク劇場の装飾を引き受け、この功によって金功労十字賞を授与される。ウィーン市からの依頼で1888年に製作した『旧ブルク劇場の観客席』は第一回皇帝賞をうけるなど高く評価された。ウィーン美術界における名声を確立したクリムトは、1894年にウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼され、『哲学』、『医学』、『法学』の『学部の絵』3点を担当したが、理性の優越性を否定する寓意に満ちたもので、その是非をめぐり大論争を引き起こした。依頼主の文部大臣が攻撃される事態にまで発展し、論争の大きさにクリムトは契約の破棄を求め、事前に受け取った報酬を返却した。この間、1897年に保守的なクンストラーハウス(美術家組合)を嫌った芸術家達によって「ウィーン分離派」が結成。分離派は古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループであり、クリムトが初代会長を務めた。分離派は展覧会、出版などを通してモダンデザインの成立に大きな役割を果たした。
クリムト「ベートーヴェンフリーズ/敵対する勢力」1901-1902年
ベートーヴェン第九交響曲にもとづいており、3つの部分に分かれている。「幸福への憧れ」(左の壁)に続き、「敵対する勢力」(中央の壁)、そして「歓喜の歌」(右の壁)が描かれており、それらがホールの3つの壁面の上半分にフリーズ状に連なるよう構成されている。
女性の裸体、妊婦、セックスなど、赤裸々で官能的なテーマを描くクリムトの作品は、甘美で妖艶なエロスと同時に、常に死の香りが感じられる(若い娘の遺体を描いた作品もある)。また、「ファム・ファタル」(宿命の女)とのも多用されたテーマである。『接吻』に代表される、いわゆる「黄金の時代」の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気を醸し出している。クリムトは、同時代の多くの芸術家同様、日本や東アジアの文化の影響を強く受けている。日本文化への深い傾倒は、甲冑や能面などの美術工芸品を含むプライベートコレクションからも明らかで、1900年分離派会館で開かれたジャポニズム展は、分離派とジャポニズムの接近を象徴するイベントであった。特に浮世絵や琳派の影響は、クリムトの諸作品の基調あるいは細部の随所に顕著に見て取れる。クリムトはかなりの数の風景画も残している。殊にアッター湖付近の風景を好んで描いた。正四角形のカンバスを愛用し、平面的、装飾的でありながら静穏で、同時にどことなく不安感をもたらすものである。
初期の作品は古典主義的なもので、連邦銀行、ワーグナー別邸、都市計画案アルティブスなどがある。1890年に市の都市計画顧問に就任し、ウィーンのための都市計画プロジェクトの準備に取り掛かる。同年以降、ウィーン市の交通施設・ドナウ整備委員会に参画し、ドナウ運河の水門、ウィーン環状鉄道の駅舎、トンネル、橋梁などの計画に関わった。
教え子のヨゼフ・マリア・オルブリッヒやヨーゼフ・ホフマンが「ウィーン分離派」に参加。ワーグナー自身も分離派に加わる。同時期の建築はマジョリカハウス、カールスプラッツ駅など、歴史主義を離れ、アールヌーヴォー的な傾向が強くなった。1905年、内部の対立からクリムト、オルブリッヒ、ホフマンらとともに分離派を脱退。後期の代表作には、ウィーン郵便貯金局(1906年-1912年)、シュタインホーフ教会堂(1907年)などがある。歴史主義から出発し、ウィーン分離派に参加する頃からアール・ヌーヴォーの影響を受けた建築様式に移っていった。これら過渡期の作品を経て、ウィーン郵便貯金局で近代建築の純粋な空間表現に到達した。
鉄骨構造になっていて構造体であるむき出しの鉄骨組にはめ込まれた二センチメートル厚の大理石版を外装に、そして鉄骨に支持された五センチメートル厚の石膏プラスター壁を内装として構成されている。両材の間隙は三センチメートルである。相互に向き合った2つの建物からなり、それぞれに一つのプラットホームを有する。
植物模様のマジョリカタイルで壁面を覆ったアール・ヌー ヴォー風の集合住宅
ガラスに囲まれた中央ホールによって近代建築の抽象的空間を生み出している。外壁の仕上げ石材をビスで留めることで、張りぼてであることを率直に表現する(シュタインホーフ教会堂等も同様)。
「芸術の課題は時代の課題であり、現代の建築は新しい材料と現代の要求に対応しなければならない」とする。有名な「芸術は必要にのみ従う」という標語は、ゴットフリート・ゼムパーの合理主義的な建築観を引き継ぐもので、近代建築の理念を表現したものである。
世界中どこであれ、建築家は伝統と対峙することはなく自身が捉えたその地方の脈絡、場の印象、そして伝統の印象といったものと対峙するのだと主張し、このことは従来の様式建築の終焉を意味している。また芸術形態の今後の展開の仕方について思考し、産業と結びつけることを強く主張した。これは仕事の分業を、つまり種々の異なる部材を同時に生産することによって、製品の組立がより迅速になることを意味した。
オーストリアの建築家・デザイナー。ウィーン分離派の中心メンバーの一人。20世紀始めにウィーン工房を主宰した。クリムト、オルブリッヒらとともにウィーン分離派を立ち上げた(1897年)。セセッション館(分離派会館、1898年)の内装も行い、活躍したが、1905年に分離派を脱退。1903年、銀行家フリッツ・ヴェルンドルファーやデザイナーコロマン・モーザーと共に「ウィーン工房」を設立。1906年、自ら手がける初めての大作「プーカースドルフのサナトリウム」を建てた。
オーストリアで登山鉄道を運営していたオーストリア、ベルギー合弁の鉄道会社顧問アドルフ・ストックレーと知り合い、この出会いから、「ストックレー邸」の設計を依頼され、その建築に当たった(1905-1911年)。これは、直線的な装飾を用いたウィーン分離派の特徴が表れており、建築史上に残る彼の代表作となった。ホフマンおよびウィーン工房が装飾、家具、食器、庭園までをデザインし、クリムトが食堂の壁画を描いたことでも知られる。
ホフマンが手掛けた初めての大作。インテリアは、ホフマン自身と協働者のコロマン・モザーが手掛けている。この建物の装飾的要素の少ない平面的な外観に、明快な幾何学的形態が、近代建築の先駆けとなっている。
ユネスコの世界遺産リストに登録されたモダニズム建築。ベルギーの金融業者アドルフ・ストックレー(AdolpheStoclet)の私邸とするために、ヨーゼフ・ホフマンによって考案されたもの。ストックレー邸は、20世紀初頭に発達した、内装・外装、家具・日用品、庭園などを不可分のものと捉える総合芸術を体現した建物である。内装はグスタフ・クリムトとフェルナン・クノップフが手がけた。建物は直線的で、曲線が主体だったアール・ヌーヴォーの時代にあっては革新的なものだった。それはキュビズムの到来を告げ、アール・デコの時代を20年先取りするものであった。
左右の壁面にクリムトの壁画
石造アーチや鉄骨半円アーチとは全く違う「三鉸アーチ」という方法が用いられ、これは、アーチを支える壁体や柱なしで組み立てられるもので、鋼でできたアーチを用いることにより可能になった技術だった。19世紀後半の工業技術と製鋼法の発展により成し得た偉業であった。
世界初の鉄筋コンクリート建築物。陸屋根、屋上庭園、張り出し(キャンティレバー)、大ガラス面など、多くの近代建築の要素を持ったRCのアパート。屋上庭園はバルコニー程度の小さなもので、張り出しは小さく、外壁はタイル張りで伝統的な印象の強いデザイン。