アール・ヌーボーの時代に続き、ヨーロッパおよびアメリカ合衆国(ニューヨーク)を中心に1910年代半ばから1930年代にかけて流行。幾何学図形をモチーフにした記号的表現や、原色による対比表現などの特徴を持つが、その装飾の度合いや様式は多様である。
1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会で花開いた。博覧会の正式名称は「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」、略称をアール・デコ博といい、この略称にちなんで一般に「アール・デコ」と呼ばれるようになった。
キュビズム、バウハウスのスタイル、当時発掘が相次いだ古代エジプト(エジプト美術)の装飾模様、アステカ文化の装飾、日本や中国などの東洋美術など、古今東西からの様々な引用や混合が指摘されている。アール・ヌーボーは植物などを思わせる曲線を多用した有機的なデザインであったが、自動車・飛行機や各種の工業製品、近代的都市生活といったものが生まれた時代への移り変わりに伴い、進歩した文明の象徴である機械を思わせる、装飾を排除した機能的・実用的なフォルムが新時代の美意識として様式化した。
世界中の都市で同時代に流行し、大衆に消費された装飾でもある。富裕層向けの一点制作のものが中心となったアール・ヌーボーのデザインに対し、アール・デコのデザインは一点ものも多かったものの、大量生産とデザインの調和をも取ろうとした。アール・デコの影響を受けた分野は多岐にわたり、広まった。
引用:Wikipedia
現代産業装飾芸術国際博覧会とは、1925年4月28日~11月8日までフランスのパリで開催された国際博覧会である。アール・デコは博覧会の名前のうち「ArtsDécoratifs」(装飾芸術)の部分の短縮からきている。この博覧会で出品された服飾品や建築にみられる、同時代の精巧で官能的な装飾芸術やデザインを言い表すために、アール・デコ(ArtDeco)という言葉が登場した。この博覧会で意図されたものは、富裕層向けの一点制作である従来の装飾芸術と、現代の大量生産社会や消費社会との調和をとることであった。しかし実際に出展された作品の多くは、富裕層を対象とする市場に向けた一点物のファッショナブルで贅沢な服飾品や室内装飾であった。会場周辺やエッフェル塔などパリのランドマークや通りに対して装飾的なイルミネーションが施され、既存の都市の表面や建築のファサードを華やかに彩った。
フランス製品の独自性や優位性を内外に示すため、装飾芸術の振興のために開催。 最先端の店舗デザインを披露した「ブティック通り」は生産でなく消費の文脈で作品を展示し、ショッピングと博覧会を融合させたこの博覧会を象徴する存在である。橋は夜になるとイルミネーションとセーヌ川につくられた噴水で彩られ、各国からの裕福な観客は橋の上のショーウィンドウに飾られたオブジェや高級服飾品を堪能して、華やかに照明されたパリ各地の高級地区で買い物をして帰って行った。
建築の文法であった様々な建築意匠を否定し、建築や装飾美術の標準化・規格化を目指すものであったため、博覧会の委員会で物議を醸した。
現在の私たちの目から見るとシンプルでモダンに見えるが、当時はこのような装飾の少ない建物は珍しく、人々の目には斬新で奇抜なものに見えた。また、経済的・合理的に作られたことも当時としては特殊であった。博覧会の外国館部門で一等賞を獲得。ル・コルビジェやヴァルター・グロピウスの作品とソヴィエト館との類似性が指摘されており、様々な議論を呼んだパヴィリオンの一つであった。
フランスの家具デザイナー・インテリアコーディネーター。アールデコ運動の最も重要な人物の一人。1925年のパリ万博で注目を集めた。洗練されたデザイン、高価でエキゾチックな素材と優れた職人技を特徴とし、アールデコの華やかさとモダニズムの象徴となった。また、よりシンプルで機能的な家具を追求したル・コルビュジエなど、他のデザイナーや建築家へ影響も与えた。
「コレクター(美術収集家)の館」を意味するこのパヴィリオンは、アール・デコ様式を代表する装飾美術家であるジャック・エミール・ルールマン(1879-1933)が中心となってその構成を行った。博覧会の展示の一つとして造られた架空の館だったが、実際の住居であるかのように設計された。当時活躍した芸術家たちがこぞって参加しており、「美術収集家の館」というテーマの下、貴重な材料や職人芸の粋を集めたインテリアで埋め尽くされた。近代的なブルジョワの感覚とフランスの伝統的な装飾性とが一つの空間の中で見事に調和しており、今なおアール・デコを代表するパヴィリオンとして注目を集めている。
マカッサルの黒檀、アマランス、象牙の象眼細工(美術館)
マホガニーにアマランスのベニヤを備えたコーナーキャビネット、アイボリーの 象眼細工
オーク材、マホガニー材、赤紫のアンダ マン島産インド紫檀の化粧張り、黒檀と 象牙の象嵌、銀を塗ったブロンズ製の鏡枠と金具、鏡
1925年のパリ万国博覧会で発表された様式がファッションにも広がりをみせ、コルセットは過去のものになり、直線的で体に沿ったチューブラーシルエット、バイヤスカットやプリーツを活かしたシルエットとの調和、ローウエストで丈の短いものなど、シンプルかつ機能的なスタイルがファッションのトレンドとなった。女性の社会進出が進み、より活動的なギャルソンヌ・ルックが注目を集め、この時代の象徴的なファッションとなった。
1920年代の象徴的なスタイルで知的、行動的、洗練されたモダンガールを指すスタイル。直訳すると「男子のような娘」の意味。大量生産時代を迎え、ファッション業界も既製服化が始まった。大衆消費時代を背景とし、既製服に合わせたシンプルなスタイルが広がった。必然的に「動きやすい」「働きやすい」機能的なウェアのデザインが求められるようになり、女性が豊満なバストを強調した、動きにくいコスチュームを身に着けるといったファッションは過去のものとなった。「動き」が重視され、服装からも余計な装飾が削られていった。
パリモードにおける1年に2回のコレクション(春夏/秋冬)で、モデルチェンジシステムが生まれた。
デザイン業界にも、モデルチェンジ、パッケージの改良などのファッション業界の手法が取り入れられた。
左から
「20世紀初頭のドレス」
「シャネルスーツ(1926年)」
「イブニングドレス(1925年)」
シャネルはこのような時代の流れを象徴するかのように、次のように語った。 「ファッションは着飾るものではありません。着るものを選ぶことにより自身の生き方を表現するものなのです。」フランスのファッションデザイナー、企業家。彼女が創設したシャネルブランドは世界有数のファッションブランドとして現在も営業している。20 世紀初頭からファッションデザイナーとして活躍し、一時的な活動停止を経て、その死に至るまで世界の代表的なファッションデザイナーであり続けた。戦間期における彼女のデザインは女性の社会進出が進んでいた当時の世相と適合し、世界のファッションスタイルに大きな影響を与えた。婦人服へのジャージー生地の導入、日常生活における利便性とファッション性を両立したスーツ、リトル・ブラック・ドレス(LBD)の概念の普及など、彼女がファッションに残した遺産は現代のファッションにも多大な影響を残しており、これらを通じてスポーティー、カジュアル・シックな服装が女性の標準的なスタイルとして確立されたとされている。
世界で最も売れた香水。シャネル N°5(Chanel N°5)は、パリのオートクチュールデザイナーだったガブリエル・ココ・シャネルが初めて送り出した香水である。
その香りを生み出す化学式を組成したのは、ロシア系フランス人科学者で調香師のエルネスト・ボー。
1926年の『VOGUE』に掲載された、ココ・シャネルによるブラックドレス。Photo: Edward Steichen/Condé Nast via Getty Images。シャネル(CHANEL)によるリトルブラックドレス(今では「LBD」と呼ばれる)は、直線的なネックラインやバトーネックが特徴で、ふくらはぎの中間から下にかけてゆるやかにフィットするデザインで人気を博した。フランス人デザイナーのジャン・パトゥやイギリス人デザイナーのエドワード・モリヌーもまた、20年代と30年代にこのスタイルを定着させた功労者だ。特に、演劇や映画が大きく花開いたこの時代、LBDはさらに魅力的な存在として、社会に受け入れられるようになった。こうして、ファッション史において最もアイコニックなブラックドレスが生まれる素地ができあがったのだ。
フランスのグラフィックデザイナー、舞台芸術家、版画家、タイポグラファー。1910年代から20年代にかけてフランスを中心に、機械時代・消費生活を先導した広告・宣伝の世界で注目を浴びた。パブリシティのためのグラフィックデザインを習熟するにつれ、徐々にこれに熱中し、これを「(芸術画家が)失った公衆との回路を再発見する」手立てと考えるようになっていった。
1920年代から1930年代にかけて、キュビズムの影響を受けた多くの作品を生み出した。直線や立体感など幾何学的構成・エアブラシを使った点描的画法により構成される、いわゆるアール・デコを代表するデザイナーである。合理主義的・機能主義的なデザイン思想に強く影響受けていた。
ポスターの構成図。コルビジェが提案した基準尺を採用している
映画、電信電話などの一般化。 (1920年ラジオ実験放送が開始)
パリ、ロンドン、ベルリン、モスクワ、 ニューヨーク、上海、東京
物ではなく、形(記号化)→ブランドが商品として 売れるようになる。
映画の時代といわれた1920年代から1930年代ライフスタイルや ファッションの流行は、ハリウッドからもたらされた。
北大西洋航路運行のために計画されたが、処女航海中の1912年4月14日深夜に氷山に衝突し、その際の損傷による浸水が原因となって翌15日未明に沈没した。
ルネサンス期にイタリアで生まれた「バレエ」は、フランスを経由し、そしてロシアで大成した。