19世紀後半に入ると産業革命の浸透、資本主義社会の発達、科学技術の進歩により都市人口の大幅な増加と階級対立の激化が見られるようになり、社会全体が大きく変動した。
ハンス・ゼードルマイアはオーストリアの美術史家で、中心の喪失(Verlust der Mitte)の概念で最もよく知られている人物である。彼の理論では、近代芸術は伝統的な形式と価値の「中心」を失い、それによって混乱と不安定さが生じたとされる。ゼードルマイアの研究対象は主に建築と絵画で、特にバロック建築とバロック絵画の研究が評価されている。
彼の学問的業績に影が落ちているのは、第二次世界大戦中のナチスへの協力が原因である。戦後、公職追放の処分を受けるものの、その後ウィーン大学で教鞭を執ることとなった。
ウィーン学派の後継的美術史家ハンス・ゼードルマイヤーによる著作(1948)の表題。「中心を失うことは人間性を失うことである」というパスカルから採った冒頭のエピグラフの通り、ロダンの台座を持たない分断された彫刻、ゴヤの無意識を追求した絵画などの考察を通じて、近代芸術が自律性・純粋性を追求して自己を解体し、人間像を著しく混乱化・デーモン化していることに「人間と神との関係が失われている」近代の時代性が表出していると主張。すなわち「中心」とは西欧文化における神であり総合的人間像(の集合としての総合芸術)を指している。本書は近代美術賛否両論を巻き起こした。ゼードルマイヤーの論考に対しては近代芸術への否定的評価や宗教的総合芸術の偏重に反論が寄せられたが、著者自身は考察手段として芸術表現を取り上げており、その点でむしろ時代性の高度な具現化と近代芸術を評価している。
台座がある
台座がない
実在しない人間の精神性を描いている
実在しない人間の精神性を描いている
印象派の傾向を受け、それを出発点としながらも、批判的に継承しつつ、厳密な形態の復活、原始的な題材や激しい色彩の導入などの独自の特徴を生み出し、20世紀の美術のさきがけとなった。形態においても、色彩においても、また思想においても、19世紀の美術と、フォーヴィスム、表現主義、キュビスムなどの20世紀美術との橋渡しをしたといえる。
印象派の光と色を意識し、物体の造形に対する意識が希薄になる傾向を批判的に捉え、造形世界を構築し、視覚認識を根本的に変革しようとした。
【引用:美術解説】ポール・セザンヌ「ピカソやキュビズムに影響を与えた後期印象派の巨匠」
「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」 ポール・セザンヌ
伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求し、最終的には、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホとならんで3大後期印象派の1人として、美術史に記録されることになった。マティスとピカソはセザンヌについて"近代美術の父"と述べている。セザンヌは「知覚の真理」を把握したいと考えていたため、複数の視点での美術的表現を探求し、1つの対象でもわずかに異なる表現を同時に鑑賞者に味わわせる表現方法を探っていた。このセザンヌの美術思想は、そのままのちにキュビスムに受け継がれる。
固定された視点から見たある現実を描いているのではなく、複数の視点から見たモチーフを集め、色と形を調整して一個の造形作品として再構築している。
繰り返し用いられる試験的なブラシストロークが大きな特徴で、それは見た目ではっきりと認識できる。平面的な色使いと小さな筆致を使って複雑な画面を生成している。そのようになるのは、セザンヌが対象となる主題を緻密に研究した結果である。
空間の奥行きや対象の立体感を表出するのは伝統的な遠近法や陰影法ではなく、緑色、黄土色、青色を主調とし、色調を微妙に変化させた小さな色面を並置することで、風景の広がりや大地の量感を表現している。
印象派の色彩表現の輝きを失うことなく、確固として造形世界を構築し、視覚認識を根本的に変革しようとした点にセザンヌの偉大さがある。
引用:アンリ・マティスとは?「色彩の魔術師」と呼ばれた画家の生涯と代表作品について分かりやすく解説!
フォービズムは20世紀のはじめにフランスで起こった絵画運動で、野獣派や野獣主義、フォーブとも言う。後期印象派を代表する画家、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌらの作品に刺激された当時の若い画家たちが、原色を主体とする激しい色彩と大胆な筆づかいで、荒々しくも力強い作品を描いた。
1905年にパリで開催された展覧会サロン・ドートンヌで、強烈な色彩と激しいタッチの絵画が展示されている一室に飾られていた彫刻を見た、フランスの批評家ルイ・ボークセルが、「野獣(フォーヴ)の檻の中にいるドナテロ(イタリアの彫刻家)のようだ」と評したことが、フォービズムという通称の由来とされている。
フォーヴィスムはキュビズムのように理知的ではなく、感覚を重視し、色彩はデッサンや構図に従属するものではなく、芸術家の主観的な感覚を表現するための道具として、自由に使われるべきであるとする。ルネサンス以降の伝統である写実主義とは決別し、目に映る色彩ではなく、心が感じる色彩を表現した。世紀末芸術に見られる陰鬱な暗い作風とは対照的に、明るい強烈な色彩でのびのびとした雰囲気を創造した。
豊かな色彩世界
「色彩の魔術師」の異名を持つマティスの最大の特徴は、その豊かな色彩世界にある。自然を愛していたマティスはそこから多くのインスピレーションを受け、その感覚や感情を色彩を通して直感的に表現する方法を磨き続けた。
形の単純化
マティスは初期の頃、一般的な写実表現で自然を描いていたが、ゴッホや印象派の画家から影響を受け、次第にものの形体も単純化させていく。この方向性は、その後のマティスの色彩感覚をより鋭敏にしていき、「形体ではなく色彩でデッサンをする」といった感覚をより強くしていったものと考えられる。
引用:「キュビズム」とは?有名な画家と代表作品を分かりやすく解説
20世紀初頭にパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって創始され、多くの追随者を生んだ現代美術の大きな動向である。それまでの具象絵画が一つの視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収めた。
キュビズムは、ブラックが描いた風景画が「小さなキューブ(立方体)による絵のようだ」と、評されたことが語源といわれており、目指すものに共通性を感じたピカソとブラックは共同で作品を生み出し、キュビズムを造りあげていった。キュビズムは1911年のアンデパンダン展への出展により知れ渡るが、第一次世界大戦前後に収束を迎える。しかしその後もデザインや建築、彫刻など、現代にも多くの影響を与え、20世紀美術の土台となった様式といっても過言ではない。
ブラックは初期の作品でフォーヴィスムの影響を受けていたが、1907年頃からキュビズムへと移行し始めた。キュビズムは形状や視点を抽象化し、従来の一点透視法を放棄してオブジェクトを多角的に捉えることを特徴としている。
ブラックの作品は、ピカソの作品と並んでキュビズムの発展に大いに貢献した。彼の影響力は絵画だけでなく、彫刻や版画、さらには装飾美術にも及んだ。
ピカソ作「アヴィニョンの娘たち」という作品に影響を受けてブラックが描いた作品。描かれているレスタックという街はマルセイユ北西にある街。この作品を展覧会に出展し「キュビスム」という名前が生まれたと言われている。
キュビスムの創始者として知られる。移動に要する時間の差から生じる複数の視点に関心があった。生涯におよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家である。
ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり、それぞれの時期が「◯◯の時代」と呼ばれている。「青の時代」「薔薇色の時代」「アフリカ彫刻の時代」「プロトキュビスムの時代」「総合的キュビスムの時代」など。
スペイン・バルセロナのアヴィニョン通りにある売春宿で働く娼婦を描いた作品で、キュビズムの出発点になったといわれている。ピカソはこの絵を描き上げた後、ごく一部の友人に公開するものの大変な不評を受けた。
しかし、その友人のうちの1人であったブラックはピカソの絵の偉大さに気づき、ピカソとブラックは共同でキュビズムを追求していった。
「アヴィニョンの娘たち」は、伝統的な遠近法を徹底的に廃し、写実的な要素が排除されてる。平面的で漫画のように描かれた女性たちの表情は、当時のピカソが影響を受けていたとされるアフリカの仮面彫刻や古代イベリア彫刻の特徴が強く表れている。
美術史において最も力強い反戦絵画の一つと評価される作品。この絵は1937年にスペイン北部のバスク地方にある都市・ゲルニカが受けた無差別爆撃を主題に描かれた。黒・白・グレーのみで表現された作品は、ピカソの憂鬱な気分や、苦しみ・混沌を表現し、あえて血の色を表現しないことで、作品に深みを与えている。
引用:コラージュとは?アッサンブラージュやパピエ・コレとの違いを解説します
素材観の革命 = あらゆる現実の断片を素材化
フランス語で、貼りつけ、糊づけを意味する。一つの画面に、印刷物などの紙や布、針金やビース、木の葉などさまざまなものを貼りつけた技法、またはそれによってつくられた造形作品。
フランス語で「何かをのり付けした紙」という意味で、コラージュの前段階に当たる絵画技法。絵画作品に、様々なものを貼り付けたパピエ・コレは、平面から立体へと発展して、絵画と彫刻の境界線を無くした造形作品(コラージュ)へ変化した。ペーパークラフトの一つとして人気のあるスクラップブッキングなんかも、パピエ・コレの一つとされている。
フランス語で寄せ集め、継ぎ合わせを意味している。コラージュやパピエ・コレの立体版と言われ、日用品や不要になった廃品なども含めた雑多なものを集めて制作された作品や手法のことを差している。立体物を集めたものを紙に描いたものもアッサンブラージュと呼ぶ。
コラージュは、「ロジックに統一性のない素材を組み合わせることで、絵画と彫刻の境界を消滅することを可能にした」と言われている。
日本でコラージュと呼ばれているものは、ほとんどこのパピエ・コレに当てはまる。
パピエ・コレは1912年頃、ピカソとブラックがキュビズム作品の創作過程で生まれたとされるが、コラージュはエルンストが1919年に発案で、最初は平面を貼り付けていただけだったのが、段々立体物も貼り付けるようになっていったと思われる。
ジョセフ・コーネルは、1930年代頃からアッサンブラージュの箱と言われる様々なものを一つの箱にいれた作品をたくさん残している。アッサンブラージュ作品は、コラージュやパピエ・コレよりも時代が新しく、第二次世界大戦後に急激に広まった。工業化が進み、消費文化という時代背景の象徴がアッサンブラージュという技法に集約された。日常に物が溢れ、貼り付けるものもたくさん増えたという様子が作品から垣間見える。
引用:「キュビズム」とは?有名な画家と代表作品を分かりやすく解説
過去の芸術の徹底破壊と、機械化によって実現された近代社会の速さを称えるもので、20世紀初頭にイタリアを中心として起こった前衛芸術運動。この運動は文学、美術、建築、音楽と広範な分野で展開された。1920年代からは、イタリア・ファシズムに受け入れられ、戦争を「世の中を衛生的にする唯一の方法」として賛美した。
未来派が礼賛したのは、工業機械文明や都市化に欠かせない速度・運動・雑音(ノイズ)といったテーマであり、それは例えばスポーツ・自動車・飛行機・都市・鉄道・
機械などに表象され、究極的には戦争の賛美にも繋がっていった。
未来派の芸術運動は、ロシアでも起こり、その後のロシア構成主義芸術や、ダダイズムの画家達、現代音楽や演劇・バレエなどに伝播し、様々なジャンルの前衛芸術家達に影響を及ぼした。ファシズムと結びついたことで、評価を受けなかった時期もあったが、現代においては、工業的テクノロジーを芸術に取り入れた先駆性の部分が再評価されている。
『……機銃掃射をも圧倒するかのように咆哮する自動車は、サモトラケ島の女神像《サモトラケのニケ》よりも美しい。……』(未来主義創立宣言(1909年)より引用)
フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティは1909年2月29日、パリの「フィガロ」紙に「未来主義創立宣言」を発表した。「速度の美」の華々しい称揚であり、それを体
現するのが「自動車」、対照的に引き合いに出されるのが「サモトラケのニケ」である。
イタリア未来派に属する画家たちの中心的存在であった。彼ら未来派の重視する要素の一つは同時性である。ここでいう同時性とは、表現する対象を様々な角度、観点から分析したときに複数の局面が同時に現れてくることをいう。これは従来のヨーローッパ絵画における伝統的価値観である、一点透視図法(ある一つの視点から見たままを描く技法)に対する重大なアンチテーゼであった。
すでにピカソやブラックがキュビスム運動によって対象を複数の面から描く方法を確立していたが、ボッチョーニら未来派の芸術家たちは、それを更に推し進めて時間的、精神的な同時性をも表現する点において新しい芸術であったのである。
未来派運動の中心的メンバーの一人で、主にパリとローマで活動。第一次世界大戦後は新古典主義に傾倒した時期もある。絵画のほか、モザイクやフレスコなどさまざまな技法の作品を残している。
セヴェリーニは他の未来派の画家たちほど機械のテーマには関心を示さず、「美術におけるダイナミスムの表現」という未来派の理論を表現するためにしばしば取り上げたテーマは、踊り子の姿であった。
「サモトラケのニケ」は、古代ギリシャの彫刻であり、現在はフランスのルーヴル美術館に展示されている。紀元前2世紀に作られたと推測されており、この彫刻は勝利の女神ニケ(Nike)を表している。
「サモトラケのニケ」は大理石で作られ、その全身像は失われているが、体の一部と大きな羽ばたく翼は残されている。その流れるようなドレープと動きの感覚は、古代ギリシャの彫刻の中でも特に称賛されている。この彫刻はサモトラケ島の大神殿の一部として設置されていたと考えられている。この作品は、古代ギリシャの理想的な美の表現として広く認識されており、特にその動的な姿勢と服の描写は、動きと生命感を巧みに表現してる。
「同時並行するヴィジョン」("Visioni simultanee")は、未来派の基本的なテーマを体現した作品であり、モダンな生活の速度と動きを表現している。画像には、建物、人々、そしてそれらすべてを結びつける抽象的な形状とラインが含まれており、それらは同時に異なる視点から観察されている。これは一種の「同時性」を表現していると言える。
この絵は、未来派の核心的な理念、つまり同時性や動き、都市生活のエネルギーを強調することを目指している。ボッチョーニはしばしば形状を歪ませ、色彩を用いて動きとエネルギーを表現した。これらのテクニックは、観察者に視覚的な刺激を与え、一つの瞬間に複数の視点と経験を同時に伝えることを可能にする。
「Cannoni in azione」(「行動中の大砲」)は、彼の未来派的なスタイルが顕著に表れている作品の一つ。
第一次世界大戦中の戦争体験を反映した作品で、独特な動きと形状、色彩を使った砲撃の描写が見られる。このような作品を通じて、セヴェリーニは戦争の混沌と力強さを表現した。
ジーノ・セヴェリーニの「danseuse」(ダンサー)は、20世紀初頭のイタリアの未来派運動に属する一作品だ。セヴェリーニはダンスと動きに魅了されており、その主題を頻繁に作品に取り入れていた。この「danseuse」は、彼の特徴的なテーマと、未来派の主要な原則である速度と動きを体現している。
作品は色彩豊かで、ダイナミックな線と形状を使って、ダンサーの動きを抽象的かつエネルギッシュに表現している。観察者は、ダンサーの動きがまるで連続的に見えるような感覚を受けるかもしれない。これは未来派のキーとなる考え方であり、同時性と動きの感覚を視覚的に捉えることを試みている。
引用:ロシア・アヴァンギャルドが目指したユートピア。革命とともに生まれた前衛芸術運動とデザイン
ロシア・アヴァンギャルドは、1917年に起きたロシア革命のさなかに生まれた芸術運動。第一次世界大戦の長期化によって、ロシア経済の混乱と疲弊は次第に国内の不満を抑えきれなくなる。これを起因として起こったロシア革命は、300年あまり続いたロマノフ王朝を倒し、世界初の社会主義国家を樹立させた。
ロシア革命の混乱の中で生まれた前衛芸術表現は、政治と結びつき、多くの芸術家たちはプロパガンダ・アートを作ることになり、実験的なポスターやチラシ、映画、街頭キャンペーンのセットなどを積極的に制作した。
絵画、演劇、建築、映画、写真、デザインといったあらゆるジャンルを巻き込み、影響を与えたロシア・アバンギャルド運動から、ロシア構成主義とシュプレマティズムという2つの重要な芸術様式(運動)が生まれる。
カジミール・マレーヴィチは、シュプレマティズム(絶対主義、至高主義)という絵画様式を生み出した。マレーヴィチは絵に込められた意味を徹底的に排した抽象的作品を追求。自然に存在する対象物を完全に排除し、純粋な感覚から生み出す無対象絵画こそ芸術であると主張した。
ロシア構成主義はラジミール・タトリンが制作した鉄板や木片を使ったカウンター・レリーフの中に構成(コンストラクション)を見出したのが始まりだと言われている。工業的な実用物を使って抽象的な美や力学的な美を表現し、個人の直感や感情ではなく、科学的、合理的な表現を追求した。革命後のロシアにおいて工業的経済発展こそが社会的進歩と考えられていた。構成主義の芸術家たちは実用的な分野に芸術表現を用いていくことで、社会に貢献する、という強い意思を持っていた。
「社会主義国家を建設するためには、芸術は直接生産活動に参加しなければならない」
1918年に制作された絵画。作品名が示す通り、白い背景に白い四角形が描かれている。この絵画は、マレーヴィチが提唱したスープレマティズムという芸術運動の象徴的な作品の一つである。この運動は、具象的な形状やオブジェクトを排除し、基本的な幾何学的形状と色による抽象表現を重視した。
「白の上の白」には、異なる白色の二つの四角形が交差している。それぞれの角度と色調の微妙な違いは視覚的なテンションを生み出し、作品の唯一の「主題」を形成する。この作品は、マレーヴィチの信念、つまり絵画が物語や象徴を必要とせず、感覚そのものを表現すべきだという考えを強く反映している。
鉄板や木片を使ったカウンター・レリーフ。主に産業材料である鉄、鋼、ガラスなどを用いた抽象的な立体構造で、視覚芸術の伝統的な規則を打破することを試みている。形と空間、物質と非物質が交差し合うこの作品は、その独自の形状と構造により観察者に空間への新たな理解を提供する。
タトリンの作品は、芸術が社会的、技術的な問題に直接対処すべきだという構成主義の理念を体現している。彼の「カウンター・レリーフ」シリーズは、芸術と建築、デザインの境界を曖昧にすることを試み、視覚芸術がどのように進化可能であるかを示している。
色と形を巧みに使用して視覚的なダイナミズムを生み出す抽象作品である。この作品は、彼の未来派の背景と、後のキャリアでのより抽象的な表現への移行を示している。
画面上に配置された赤い楔形と白い背景は、明確な幾何学的形状と強い色対比により視覚的な張りを生み出している。また、楔形の向きと配置により、視覚的な運動感が引き立てられている。
1920年から1930年の間にモスクワで設立され美術教育に当たったソ連国立高等教育機関である芸術工芸学校。芸術や建築分野で、ロシアアヴァンギャルドと呼ばれる芸術ムーブメント、シュプレマティスム(絶対主義)や構成主義(ロシア構成主義)といった運動体に呼応した新時代の革新的な美術教育機関となった。それゆえ常に政治的な圧力にさらされていく。
1918年、スヴォマス(国立自由美術工房、国立自由芸術工房)として発足するが、ウラジーミル・レーニンが2年後の1920年に、スヴォマスを改組する勅令を出して、モスクワにヴフテマスを開設。
芸術学部と産業学部を設置し、芸術学部ではグラフィック科、彫刻科、建築科、を開設。産業学部は印刷科、陶芸科、テキスタイルデザイン科、木工科、金属加工科を開設した。常時で100名の教育スタッフを抱え、学生は往事は約2,700名が在籍している。いずれの科も基礎造形課程に重きを置き、建築や工芸、産業デザイン、
工業デザインを重視する、一見バウハウスに似た芸術教育を導入している。
生産に役立つ技能を持った、新しいタイプの芸術家=職人を育成する目的で芸術教育が行なわれ、構成主義および合理主義建築の中心的役割を担った。25年のパリ万国博覧会では学生や教員のデザインが数々の賞を受賞してロシアにおける構成主義を世界に喧伝した。
画家、彫刻家、建築家、デザイナー、舞台美術家
芸術家、絵画、デザイン、舞台芸術、写真など
20世紀初頭におけるロシア構成主義建築家
この塔は、コミュニズムの国際的な連帯を象徴するために建設されることを意図していた。
タトリンの設計によると、この塔は400メートルの高さを持つ予定で、3つの主要な構造部分がそれぞれ異なる速度で回転することを特徴としていた。最下部の大きな円筒は一日に一回、中間の小さな円錐は一ヶ月に一回、最上部の小さな円筒は一年に一回回転することを計画していた。
この設計は、工業的な素材と斬新な構造を用い、動きと変化を強調することで、構成主義の主要な理念を体現している。タトリンは、芸術が社会と技術の進歩に対応し、これらを反映するべきだと信じていた。
しかし、財政と技術的な問題から、この記念塔は建設されずに終わった。それにも関わらず、その設計は20世紀の建築と芸術の歴史において重要な位置を占めている。
左翼芸術雑誌「レフ」のデザインと挿絵。レフはロシア・アヴァンギャルド期における、文学・芸術に関する左翼団体およびその機関誌名。文学と芸術を通じて、左翼的な哲学やイデオロギーの構築・実現を目指した。未来派、ロシア構成主義、オポヤズなどにかかわった者が寄り集まったものだといえる。
1925年のパリ万国博覧会のために設計された建築作品。このパビリオンは、新たなソビエト社会を象徴し、またその技術的な進歩と産業的な能力を示すものとして計画された。
パビリオンの設計は、構成主義の原則に基づいており、幾何学的な形状と工業材料を特徴としている。メーリニコフは、機能と表現を結びつけ、新しい形と空間の組み合わせを通じて、ソビエト連邦の理想を視覚化した。
特に目を引くのは、斜めに交差する直線のファサードで、これは動きとエネルギーを象徴しているとされている。その内部は、教育的な展示スペースとして使用され、新しいソビエト社会の成果を紹介するために設計された。
このパビリオンは、モダニズム建築の重要な例とされ、メーリニコフの創造的なビジョンと技術的なスキルを示すものであると広く認識されている。
引用:ロシア・アヴァンギャルドが目指したユートピア。革命とともに生まれた前衛芸術運動とデザイン
ウクライナ・ソ連の芸術家。特に画家として知られ、戦前に抽象絵画を手掛けた最初の人物である。カジミール・マレーヴィチは、シュプレマティズム(絶対主義、至高主義)という絵画様式を生み出した。マレーヴィチは絵に込められた意味を徹底的に排した抽象的作品を追求。自然に存在する対象物を完全に排除し、純粋な感覚から生み出す無対象絵画こそ芸術である、と主張した。対象を持たないことで鑑賞者に「考えさせる」ということを望み、そこに生まれる純粋な感情こそがアートと考えた。シュプレマティズムは過去の芸術を完全に否定することで新しい価値を生み出し、抽象絵画の1つの到達点であるとも評価された。
それまでの絵画は対象を持っており、鑑賞者は基準となる価値観を持ち、上手い下手、好き嫌いという評価をつけ、鑑賞者側に主導権があった。黒の正方形は絵自体が主導権を持ちます。それによって観賞者は「この黒の中に宇宙の真理が隠されているのかも?」というような、既存の価値観では評価できない状態になる。
「黒の正方形」は、1915年に制作された画期的な抽象作品だ。この絵画は、黒い正方形が白いキャンバス上に描かれており、その単純な構成にも関わらず、20世紀の美術の進展に大きな影響を与えた。
「黒の正方形」はそのシュプレマティズムを具現化しており、形状と色彩のみで構成されている。この作品は、視覚芸術が表現可能な範囲を拡大し、伝統的な具象表現からの解放を模索する抽象芸術の先駆けとなった。その結果「黒の正方形」は、20世紀の芸術史における最も記念碑的な作品の一つとして認識されている。
未来派とキュビズムに影響を受けた期間に制作された絵画。この作品は、運動と時間の同時性を視覚的に表現することを試みており、これは当時のアヴァンギャルドな芸術家たちが共有していた主要な関心事の一つだった。
絵画は、ダイナミックな抽象形状と色彩で、男性が研ぎ石でナイフを研ぐ動きを表現している。人物と物体の形状は分解され、多角的な視点から描かれ、その結果、運動が連続的に発生しているかのような印象を視覚的に伝えている。
マレーヴィチが後に開発することになるスープレマティズムへの過渡期の作品であるとも見なされている。シュプレマティズムは、具象的な形状や表現を排除し、色と幾何学的形状による純粋な視覚的感覚を追求する芸術運動である。マレーヴィチは、この「The Knifegrinder」においても、視覚芸術の可能性を拡張するために、伝統的な表現手法を再考している。
ロシアのグラフィックデザイナー、ブックデザイナー、展示デザイナー、建築家、写真家。20世紀におけるグラフィックデザインの祖といわれるほど、数多くの革新的なデザインを生み出したエル・リシツキーは、「鑑賞するものに行動を促す」というテーマを生涯持ち続けた。
革命政府が赤、旧ロシア帝国が白。シンプルな構図の中に隠された強烈なメッセージ。シュプレマティズム手法を取り入れつつ幾何学図形で構成された表現だが、誰がみても直感的に理解できる。
声に出して読むことを前提に作られた詩集。言葉を声にすることで詩を体感させることを試みた。
ロシア構成主義の芸術家。絵画、デザイン、舞台芸術、写真など、幅広くに渡って活躍した。
芸術が「生活とともに機能する」ことを追求し続け、ロシア構成主義の中心人物として活躍。ロトチェンコが手がけたポスターデザインは、どれも現在の広告デザインのお手本となるようなものばかりであり、幾何学図形やフォトモンタージュを駆使したシンプルなメッセージと構図は、見たものに力強い印象を残す。
すべての人が本を読むようになることが革命だと訴えるポスター「あらゆる知についての書籍」。当時の国民の識字率はわずか18%。「本よー!」
20世紀初頭のロシア構成主義運動の一部だ。これは、新しいソビエト連邦の力強さを象徴する作品である。このポスターは、鮮やかな色と幾何学的な形状を駆使して、革命的なデザインを提示している。
この作品は、美術の伝統を打ち破る新たな社会秩序の象徴として制作された。それは、構成主義の核心的な原則、すなわち芸術が単なる装飾ではなく社会的、政治的目的を果たすツールであるという考え方を体現している。
また、ロトチェンコのこのようなグラフィックデザイン作品は、後世の広告デザインやタイポグラフィに大きな影響を与えている。
「あなたのお名前が当社の株主リストに載っていないのは恥ずかしいことです。」と書いてある。
20世紀初頭のロシア構成主義運動の一部。この作品は、画期的な視覚言語と革新的なグラフィックデザイン技法を用いて、商業広告の新たな可能性を探求している。
ポスターは、単純な形状、鮮やかな色、ダイナミックな構成を特徴としており、視覚的なインパクトを最大限に引き出すための努力が見て取れる。これは、構成主義者たちが追求した芸術の社会的役割を明確に示している。
ロトチェンコのこのような作品は、後の広告デザインと視覚コミュニケーションの発展に大きな影響を与えている。彼のアプローチは、芸術と商業の融合、そしてメッセージを効果的に伝えるための視覚言語の探求という、現代のグラフィックデザインの主要な原則を先取りしている。
ロシアの建築家。20世紀初頭におけるロシア構成主義建築、アバンギャルドの巨人のひとり。1923年全ロシア農業博覧会のマホルカ・パビリオンの設計を皮切りに、メーリニコフは斬新かつ革新的な設計プランを発表し注目を集めるようになった。1924年レーニン廟、1925年パリ現代産業装飾芸術万国博覧会ソ連パビリオンを発表し、特にパリのソ連パビリオンは、世界的にも注目を浴びた。
ソヴィエト館は一見、鉄筋コンクリート造りに見えるが木造である。この建物は、まずソ連国内で木材を加工した後、パリで組み立てるという、今日のプレハブ工法で造られた。財政面・技術面での問題を解決したのである。当時はこのような装飾の少ない建物は珍しく、人々の目には斬新で奇抜なものに見えた。
メーリニコフの自邸は、2つのシリンダーを接合した形状で、六角形の窓が規則的に並んだファサードが特徴的である。このメーリニコフ邸の塔屋は、六角形の煉瓦ブロックによって構築されている。
引用:ロシア・アヴァンギャルドが目指したユートピア。革命とともに生まれた前衛芸術運動とデザイン
1920年代のソ連で活発に提唱、議論された映画理論。「モンタージュ」はもともとフランス語で、「機械や道具の組立て、設置、はめ込み」を意味する。映画の場合、広義にはフィルムの編集技法に含まれる。
エイゼンシュテインは、アトラクションのモンタージュ、オーバートーンのモンタージュ、垂直のモンタージュ等々、サイレント映画期からトーキー映画期にかけて(1920年代から40年代)、さまざまなモンタージュ理論を考察し、自己の作品に応用し、確立した。
ソ連のモンタージュ理論は、材料としての断片的画面をどのように組織化するか、組織化した一連の画面はどのように観客へ作用するのかといった論点が共通していたといえる。
1925年に製作・公開されたソビエト連邦のサイレント映画。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の長編第2作で、「第1次ロシア革命20周年記念」として製作された。 1905年に起きた戦艦ポチョムキンの反乱を描いたもので、「オデッサの階段」と呼ばれるオデッサの市民を虐殺する場面は映画史上有名なシーンの一つであり、様々なオマージュやパロディを生んでいる。
当時のソ連の映画人が提唱したモンタージュ理論を確立した作品として知られ、エイゼンシュテインが唱える「アトラクションのモンタージュ」などといった独創的なモンタージュ理論を実践しており、世界各地で大きな反響を受けるとともに、後の映画人にも多大な影響を与えた。現在に至るまで映画史的に非常に重要な作品として評価されており、『國民の創生』、『市民ケーン』とともに映画芸術に革命をもたらした画期的作品とされる。