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近代絵画の形成

19世紀後半~ ルネサンス以来の西洋芸術のアカデミックな規範の解体

19世紀後半に入ると産業革命の浸透、資本主義社会の発達、科学技術の進歩により都市人口の大幅な増加と階級対立の激化が見られるようになり、社会全体が大きく変動した。

ゼードルマイヤ(1896-1984)

ハンス・ゼードルマイアはオーストリアの美術史家で、中心の喪失(Verlust der Mitte)の概念で最もよく知られている人物である。彼の理論では、近代芸術は伝統的な形式と価値の「中心」を失い、それによって混乱と不安定さが生じたとされる。ゼードルマイアの研究対象は主に建築と絵画で、特にバロック建築とバロック絵画の研究が評価されている。
彼の学問的業績に影が落ちているのは、第二次世界大戦中のナチスへの協力が原因である。戦後、公職追放の処分を受けるものの、その後ウィーン大学で教鞭を執ることとなった。

引用 : Finestre sull'Arte

ポスト印象派(1880-1905頃)

 印象派の傾向を受け、それを出発点としながらも、批判的に継承しつつ、厳密な形態の復活、原始的な題材や激しい色彩の導入などの独自の特徴を生み出し、20世紀の美術のさきがけとなった。形態においても、色彩においても、また思想においても、19世紀の美術と、フォーヴィスム、表現主義、キュビスムなどの20世紀美術との橋渡しをしたといえる。
 印象派の光と色を意識し、物体の造形に対する意識が希薄になる傾向を批判的に捉え、造形世界を構築し、視覚認識を根本的に変革しようとした。

【引用:美術解説】ポール・セザンヌ「ピカソやキュビズムに影響を与えた後期印象派の巨匠」

「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」 ポール・セザンヌ

ポール・セザンヌ(1839-1906)

伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求し、最終的には、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホとならんで3大後期印象派の1人として、美術史に記録されることになった。マティスとピカソはセザンヌについて"近代美術の父"と述べている。セザンヌは「知覚の真理」を把握したいと考えていたため、複数の視点での美術的表現を探求し、1つの対象でもわずかに異なる表現を同時に鑑賞者に味わわせる表現方法を探っていた。このセザンヌの美術思想は、そのままのちにキュビスムに受け継がれる。

引用:Wikipedia

フォービズム(色彩の解放と自立)(1905-1910頃)

引用:アンリ・マティスとは?「色彩の魔術師」と呼ばれた画家の生涯と代表作品について分かりやすく解説!

フォービズムは20世紀のはじめにフランスで起こった絵画運動で、野獣派や野獣主義、フォーブとも言う。後期印象派を代表する画家、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌらの作品に刺激された当時の若い画家たちが、原色を主体とする激しい色彩と大胆な筆づかいで、荒々しくも力強い作品を描いた。
1905年にパリで開催された展覧会サロン・ドートンヌで、強烈な色彩と激しいタッチの絵画が展示されている一室に飾られていた彫刻を見た、フランスの批評家ルイ・ボークセルが、「野獣(フォーヴ)の檻の中にいるドナテロ(イタリアの彫刻家)のようだ」と評したことが、フォービズムという通称の由来とされている。

フォーヴィスムはキュビズムのように理知的ではなく、感覚を重視し、色彩はデッサンや構図に従属するものではなく、芸術家の主観的な感覚を表現するための道具として、自由に使われるべきであるとする。ルネサンス以降の伝統である写実主義とは決別し、目に映る色彩ではなく、心が感じる色彩を表現した。世紀末芸術に見られる陰鬱な暗い作風とは対照的に、明るい強烈な色彩でのびのびとした雰囲気を創造した。

アンリ・マティス(1869-1954)

マティスは色彩表現を現実のものから解放した人物。色をどんどん単純化させていき、色彩の純化を追求していった結果、晩年のように最終的には切り絵という表現にたどり着いた。

引用:Wikipedia

キュビズム(分析から統合へ)(1907-1914頃)

引用:「キュビズム」とは?有名な画家と代表作品を分かりやすく解説

20世紀初頭にパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって創始され、多くの追随者を生んだ現代美術の大きな動向である。それまでの具象絵画が一つの視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収めた。
キュビズムは、ブラックが描いた風景画が「小さなキューブ(立方体)による絵のようだ」と、評されたことが語源といわれており、目指すものに共通性を感じたピカソとブラックは共同で作品を生み出し、キュビズムを造りあげていった。キュビズムは1911年のアンデパンダン展への出展により知れ渡るが、第一次世界大戦前後に収束を迎える。しかしその後もデザインや建築、彫刻など、現代にも多くの影響を与え、20世紀美術の土台となった様式といっても過言ではない。

ジョルジュ・ブラック(1882-1963)

ブラックは初期の作品でフォーヴィスムの影響を受けていたが、1907年頃からキュビズムへと移行し始めた。キュビズムは形状や視点を抽象化し、従来の一点透視法を放棄してオブジェクトを多角的に捉えることを特徴としている。

ブラックの作品は、ピカソの作品と並んでキュビズムの発展に大いに貢献した。彼の影響力は絵画だけでなく、彫刻や版画、さらには装飾美術にも及んだ。

引用:Wikipedia

パブロ・ピカソ(1881-1973)

キュビスムの創始者として知られる。移動に要する時間の差から生じる複数の視点に関心があった。生涯におよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家である。
ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり、それぞれの時期が「◯◯の時代」と呼ばれている。「青の時代」「薔薇色の時代」「アフリカ彫刻の時代」「プロトキュビスムの時代」「総合的キュビスムの時代」など。

引用:Wikipedia

コラージュとパピエ・コレ(素材観の革命)(1912-1914頃)

引用:コラージュとは?アッサンブラージュやパピエ・コレとの違いを解説します

素材観の革命 = あらゆる現実の断片を素材化

コラージュ(仏:collage):

フランス語で、貼りつけ、糊づけを意味する。一つの画面に、印刷物などの紙や布、針金やビース、木の葉などさまざまなものを貼りつけた技法、またはそれによってつくられた造形作品。

パピエ・コレ(仏:papier collé):

フランス語で「何かをのり付けした紙」という意味で、コラージュの前段階に当たる絵画技法。絵画作品に、様々なものを貼り付けたパピエ・コレは、平面から立体へと発展して、絵画と彫刻の境界線を無くした造形作品(コラージュ)へ変化した。ペーパークラフトの一つとして人気のあるスクラップブッキングなんかも、パピエ・コレの一つとされている。

アッサンブラージュ(仏:assemblage):

フランス語で寄せ集め、継ぎ合わせを意味している。コラージュやパピエ・コレの立体版と言われ、日用品や不要になった廃品なども含めた雑多なものを集めて制作された作品や手法のことを差している。立体物を集めたものを紙に描いたものもアッサンブラージュと呼ぶ。

未来派(機械とテクノロジーを称賛)(1909-1944頃)

引用:「キュビズム」とは?有名な画家と代表作品を分かりやすく解説

過去の芸術の徹底破壊と、機械化によって実現された近代社会の速さを称えるもので、20世紀初頭にイタリアを中心として起こった前衛芸術運動。この運動は文学、美術、建築、音楽と広範な分野で展開された。1920年代からは、イタリア・ファシズムに受け入れられ、戦争を「世の中を衛生的にする唯一の方法」として賛美した。
未来派が礼賛したのは、工業機械文明や都市化に欠かせない速度・運動・雑音(ノイズ)といったテーマであり、それは例えばスポーツ・自動車・飛行機・都市・鉄道・ 機械などに表象され、究極的には戦争の賛美にも繋がっていった。
未来派の芸術運動は、ロシアでも起こり、その後のロシア構成主義芸術や、ダダイズムの画家達、現代音楽や演劇・バレエなどに伝播し、様々なジャンルの前衛芸術家達に影響を及ぼした。ファシズムと結びついたことで、評価を受けなかった時期もあったが、現代においては、工業的テクノロジーを芸術に取り入れた先駆性の部分が再評価されている。

未来主義創立宣言より

『……機銃掃射をも圧倒するかのように咆哮する自動車は、サモトラケ島の女神像《サモトラケのニケ》よりも美しい。……』(未来主義創立宣言(1909年)より引用)
フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティは1909年2月29日、パリの「フィガロ」紙に「未来主義創立宣言」を発表した。「速度の美」の華々しい称揚であり、それを体 現するのが「自動車」、対照的に引き合いに出されるのが「サモトラケのニケ」である。

ウンベルト・ボッチョ-二(1882-1969)

イタリア未来派に属する画家たちの中心的存在であった。彼ら未来派の重視する要素の一つは同時性である。ここでいう同時性とは、表現する対象を様々な角度、観点から分析したときに複数の局面が同時に現れてくることをいう。これは従来のヨーローッパ絵画における伝統的価値観である、一点透視図法(ある一つの視点から見たままを描く技法)に対する重大なアンチテーゼであった。
すでにピカソやブラックがキュビスム運動によって対象を複数の面から描く方法を確立していたが、ボッチョーニら未来派の芸術家たちは、それを更に推し進めて時間的、精神的な同時性をも表現する点において新しい芸術であったのである。

ジーノ・セヴェリーニ(1887-1968)

未来派運動の中心的メンバーの一人で、主にパリとローマで活動。第一次世界大戦後は新古典主義に傾倒した時期もある。絵画のほか、モザイクやフレスコなどさまざまな技法の作品を残している。
セヴェリーニは他の未来派の画家たちほど機械のテーマには関心を示さず、「美術におけるダイナミスムの表現」という未来派の理論を表現するためにしばしば取り上げたテーマは、踊り子の姿であった。

ロシア アバンギャルド(シュプレマティズムと構成主義)

引用:ロシア・アヴァンギャルドが目指したユートピア。革命とともに生まれた前衛芸術運動とデザイン

ロシア・アヴァンギャルドは、1917年に起きたロシア革命のさなかに生まれた芸術運動。第一次世界大戦の長期化によって、ロシア経済の混乱と疲弊は次第に国内の不満を抑えきれなくなる。これを起因として起こったロシア革命は、300年あまり続いたロマノフ王朝を倒し、世界初の社会主義国家を樹立させた。
 ロシア革命の混乱の中で生まれた前衛芸術表現は、政治と結びつき、多くの芸術家たちはプロパガンダ・アートを作ることになり、実験的なポスターやチラシ、映画、街頭キャンペーンのセットなどを積極的に制作した。
 絵画、演劇、建築、映画、写真、デザインといったあらゆるジャンルを巻き込み、影響を与えたロシア・アバンギャルド運動から、ロシア構成主義とシュプレマティズムという2つの重要な芸術様式(運動)が生まれる。

シュプレマティズム

カジミール・マレーヴィチは、シュプレマティズム(絶対主義、至高主義)という絵画様式を生み出した。マレーヴィチは絵に込められた意味を徹底的に排した抽象的作品を追求。自然に存在する対象物を完全に排除し、純粋な感覚から生み出す無対象絵画こそ芸術であると主張した。

ロシア構成主義

ロシア構成主義はラジミール・タトリンが制作した鉄板や木片を使ったカウンター・レリーフの中に構成(コンストラクション)を見出したのが始まりだと言われている。工業的な実用物を使って抽象的な美や力学的な美を表現し、個人の直感や感情ではなく、科学的、合理的な表現を追求した。革命後のロシアにおいて工業的経済発展こそが社会的進歩と考えられていた。構成主義の芸術家たちは実用的な分野に芸術表現を用いていくことで、社会に貢献する、という強い意思を持っていた。
「社会主義国家を建設するためには、芸術は直接生産活動に参加しなければならない」

ヴフテマス( 国立高等芸術技術工房 )

引用:Artwords(アートワード)

1920年から1930年の間にモスクワで設立され美術教育に当たったソ連国立高等教育機関である芸術工芸学校。芸術や建築分野で、ロシアアヴァンギャルドと呼ばれる芸術ムーブメント、シュプレマティスム(絶対主義)や構成主義(ロシア構成主義)といった運動体に呼応した新時代の革新的な美術教育機関となった。それゆえ常に政治的な圧力にさらされていく。
1918年、スヴォマス(国立自由美術工房、国立自由芸術工房)として発足するが、ウラジーミル・レーニンが2年後の1920年に、スヴォマスを改組する勅令を出して、モスクワにヴフテマスを開設。

芸術学部と産業学部を設置し、芸術学部ではグラフィック科、彫刻科、建築科、を開設。産業学部は印刷科、陶芸科、テキスタイルデザイン科、木工科、金属加工科を開設した。常時で100名の教育スタッフを抱え、学生は往事は約2,700名が在籍している。いずれの科も基礎造形課程に重きを置き、建築や工芸、産業デザイン、 工業デザインを重視する、一見バウハウスに似た芸術教育を導入している。
生産に役立つ技能を持った、新しいタイプの芸術家=職人を育成する目的で芸術教育が行なわれ、構成主義および合理主義建築の中心的役割を担った。25年のパリ万国博覧会では学生や教員のデザインが数々の賞を受賞してロシアにおける構成主義を世界に喧伝した。

[ 教員 ]

ラジミール・タトリン

画家、彫刻家、建築家、デザイナー、舞台美術家

アレクサンドル・ロトチェンコ

芸術家、絵画、デザイン、舞台芸術、写真など

コンスタンチン・メーリニコフ

20世紀初頭におけるロシア構成主義建築家

ロシア アバンギャルドの人々

引用:ロシア・アヴァンギャルドが目指したユートピア。革命とともに生まれた前衛芸術運動とデザイン

カジミール・マレービッチ(1879-1935)

ウクライナ・ソ連の芸術家。特に画家として知られ、戦前に抽象絵画を手掛けた最初の人物である。カジミール・マレーヴィチは、シュプレマティズム(絶対主義、至高主義)という絵画様式を生み出した。マレーヴィチは絵に込められた意味を徹底的に排した抽象的作品を追求。自然に存在する対象物を完全に排除し、純粋な感覚から生み出す無対象絵画こそ芸術である、と主張した。対象を持たないことで鑑賞者に「考えさせる」ということを望み、そこに生まれる純粋な感情こそがアートと考えた。シュプレマティズムは過去の芸術を完全に否定することで新しい価値を生み出し、抽象絵画の1つの到達点であるとも評価された。
それまでの絵画は対象を持っており、鑑賞者は基準となる価値観を持ち、上手い下手、好き嫌いという評価をつけ、鑑賞者側に主導権があった。黒の正方形は絵自体が主導権を持ちます。それによって観賞者は「この黒の中に宇宙の真理が隠されているのかも?」というような、既存の価値観では評価できない状態になる。

エル・リシツキー(1890-1941)

ロシアのグラフィックデザイナー、ブックデザイナー、展示デザイナー、建築家、写真家。20世紀におけるグラフィックデザインの祖といわれるほど、数多くの革新的なデザインを生み出したエル・リシツキーは、「鑑賞するものに行動を促す」というテーマを生涯持ち続けた。

引用:Wikipedia

アレクサンドル・ロトチェンコ(1871-1951)

ロシア構成主義の芸術家。絵画、デザイン、舞台芸術、写真など、幅広くに渡って活躍した。
芸術が「生活とともに機能する」ことを追求し続け、ロシア構成主義の中心人物として活躍。ロトチェンコが手がけたポスターデザインは、どれも現在の広告デザインのお手本となるようなものばかりであり、幾何学図形やフォトモンタージュを駆使したシンプルなメッセージと構図は、見たものに力強い印象を残す。

引用:ノラの絵画の時間

コンスタンチン・メーリニコフ(1890-1974)

ロシアの建築家。20世紀初頭におけるロシア構成主義建築、アバンギャルドの巨人のひとり。1923年全ロシア農業博覧会のマホルカ・パビリオンの設計を皮切りに、メーリニコフは斬新かつ革新的な設計プランを発表し注目を集めるようになった。1924年レーニン廟、1925年パリ現代産業装飾芸術万国博覧会ソ連パビリオンを発表し、特にパリのソ連パビリオンは、世界的にも注目を浴びた。

引用:Wikipedia

モンタージュ理論

引用:ロシア・アヴァンギャルドが目指したユートピア。革命とともに生まれた前衛芸術運動とデザイン

1920年代のソ連で活発に提唱、議論された映画理論。「モンタージュ」はもともとフランス語で、「機械や道具の組立て、設置、はめ込み」を意味する。映画の場合、広義にはフィルムの編集技法に含まれる。
エイゼンシュテインは、アトラクションのモンタージュ、オーバートーンのモンタージュ、垂直のモンタージュ等々、サイレント映画期からトーキー映画期にかけて(1920年代から40年代)、さまざまなモンタージュ理論を考察し、自己の作品に応用し、確立した。
ソ連のモンタージュ理論は、材料としての断片的画面をどのように組織化するか、組織化した一連の画面はどのように観客へ作用するのかといった論点が共通していたといえる。

戦艦ポチョムキン

1925年に製作・公開されたソビエト連邦のサイレント映画。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の長編第2作で、「第1次ロシア革命20周年記念」として製作された。 1905年に起きた戦艦ポチョムキンの反乱を描いたもので、「オデッサの階段」と呼ばれるオデッサの市民を虐殺する場面は映画史上有名なシーンの一つであり、様々なオマージュやパロディを生んでいる。
 当時のソ連の映画人が提唱したモンタージュ理論を確立した作品として知られ、エイゼンシュテインが唱える「アトラクションのモンタージュ」などといった独創的なモンタージュ理論を実践しており、世界各地で大きな反響を受けるとともに、後の映画人にも多大な影響を与えた。現在に至るまで映画史的に非常に重要な作品として評価されており、『國民の創生』、『市民ケーン』とともに映画芸術に革命をもたらした画期的作品とされる。