20世紀初めにオランダに興った抽象美術運動。テオ・ファン・ドーセンブルフはピエト・モンドリアンの絵画と造形思想に共鳴し、彼とともに「新造形主義ネオ・プラスティシズム」を成立させ、この思想を広めるために雑誌の発行(1917‐1928) を中心とした新しい造形運動をライデンで起こした。「デ・スティル」(オランダ語で「様式」) はこの雑誌の題で、やがて運動の名称ともなった。従来の具象芸術に対して水平線、垂直線、直角、正方形、長方形、三原色、非装飾性、単純性を追求し、客観的で普遍的な表現様式を目指す。彫刻家ジョルジュ・ヴァントンゲルローやデザイナーで建築家のヘリット・トフェルトなど多様な分野で活躍するメンバーが参加していたことから、絵画・彫刻にとどまらず、建築やデザインなどの分野においても、モンドリアンの厳格な造形理念が共有された。その後、モンドリアンはドースブルフが絵画よりも建築を重視したため、1925年にグループを脱退した。しかし、このグループは建築や抽象絵画の重視、バウハウスへの大きな影響、ダダと構成主義の橋渡しなど、国境や美術の分野を越えた活動を行ったと評価できる。
引用:Wikipedia、コトバンク(デ・ステイル)、artscape(アートワード:デ・ステイル)
デ・スティル(De Stijl)運動の創設メンバーであり、オランダの芸術家、建築家、詩人です。彼は抽象芸術や抽象建築を提唱し、幾何学的な形状や抽象的な要素を取り入れた作品を制作しました。
ファン・ドーセンブルフは、デ・スティル運動の理念を普及させるために、展覧会や雑誌の編集、講演などの活動にも取り組みました。また、建築やデザインにおいても革新的なアイデアを提案し、その影響は多岐にわたりました。
ファン・ドーセンブルフの作品やアイデアは、ファン・ドーセンブルフ自身の名前がデ・スティル運動の中心的なメンバーとして頻繁に言及されることからもわかるように、運動の重要な一翼を担っています。彼の活動は、モダニズムの発展に大きな影響を与えました。
ピエト・モンドリアンは、オランダ出身の抽象画家で、20世紀初頭の芸術運動であり、「デ・ステイル」の重要な人物である。「新造形主義」または「ネオ・プラスティシズム」の哲学を具現化しており、彼の画風は、極めて純粋で抽象的な形状と色彩を特徴としている。具体的には、真っ直ぐな黒い線で区切られた、原色(赤、青、黄色)、そして非色(黒、白、グレー)を使用した幾何学的な抽象画で知られている。彼はこの形状と色を用いて、自然の混沌と調和を抽象的に表現した。
彼の「新造形主義」または「ネオ・プラスティシズム」のスタイルが最もよく表現されている作品のひとつ。
この絵画では、モンドリアンが基本的な色(赤、青、黄色)と非色(黒、白)を用いて、幾何学的な形状と構造を創り出すことで、極度に抽象化した表現を試みている。この作品には、互いに直交する太い黒い直線が使われており、それらの間のスペースは主に白で塗られ、一部の領域には赤、青、黄色が塗られている。
モンドリアンのこの種の作品は、彼が求めていた「普遍的な調和」の表現を試みており、視覚的な対比(色、形、直線)を通じて、絶対的な均衡状態を探求している。現代美術における抽象主義の方向性を示す象徴的な一例となった。
ベルギー出身の彫刻家、画家、理論家であり、20世紀初頭の抽象芸術運動「デ・スティル」のメンバーとして貢献した。彼は特に彫刻で知られ、幾何学的な抽象作品を制作したことで評価されている。ピエト・モンドリアンと同様で、彼らは色、線、面を使った純粋な形式の表現を追求した。
彼はまた、彫刻と建築の間の関係を探求し、その結果は数学的な原則に基づいた抽象的な形状の彫刻に反映されている。この観点から、彼の作品はしばしば機能主義と結びつけられる。機能主義は特に建築で主流となり、形式が機能に従うべきであるという理念を持つ運動である。
後年、ヴァントンゲルローは自然と科学の関係に興味を持ち、彼の作品はより数学的、特に幾何学的な要素を取り入れるようになった。この進化は、彼の作品の中で見ることができます。その中でも彼の彫刻作品は、宇宙の法則を表現するために幾何学的な形を使用していることで知られている。
ヘーリット・トーマス・リートフェルトはオランダ出身の建築家で家具デザイナー。20世紀初頭のモダニスト運動における貢献で知られている。彼はまた、「デ・ステイル」運動の重要なメンバーでもある。
家具職人を父にもつリートフェルトは、幼少時からその仕事を手伝いながら家具作りの基礎を学んだ。23歳で自身の工房を立ち上げると、変化する時代にふさわしい表現を求め、新しい造形を目指した。
リートフェルトは、シンプルで幾何学的な形状と原色を用いた独自のデザインスタイルで知られている。彼の最も有名な作品の一つは、「リートフェルト・シュレーダー・ハウス」である。これは1924年にオランダのユトレヒトに建てられた住宅で、「デ・スティル」運動の理念を具現化した建築とされている。この家は、直角に交わる面と直線、そして基本色(赤、青、黄)と非色(白、黒、灰)を用いたシンプルなデザインで知られている。
彼のデザインした家具も非常に有名だ。特に「レッド・アンド・ブルー・チェア」は、モダニズムデザインのアイコンとなっている。この椅子は1917年にデザインされ、シンプルな木製スラットと直角で組み合わされ、デ・ステイルの色彩理論に基づいて赤、青、黄色、白に塗装されている。
リートフェルトの作品は、機能性と美的表現の統合を追求するモダニストデザインの理念を具現化している。彼の作品は、建築とデザインの両方で、モダニズム運動の発展に大きな影響を与えた。
鮮やかに彩色された彫刻的な椅子は、伝統的な様式やモチーフを捨て去り、モダンデザインが向かう純粋な抽象性を追求した。当初は無彩色だったものを、ピート・モンドリアンの絵画を知ったリートフェルトは、1918年に三原色と黒で塗り直した。サイズはW655✕D840✕H875✕SH330mm。
ユネスコの世界遺産に登録され、建築分野における現代運動の象徴、「デ・スティル建築」を代表する作品として評価されている。デ・スティルに準拠して設計された唯一の建物で、直線的かつ原色によるアプローチはヘリット・リートフェルトが 1917 年に発表した「レッド&ブルー チェア」を発展させたものになる。
モダニズム建築の巨匠といわれ、特にフランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」として位置づけられる。鉄筋コンクリートを利用し、装飾のない平滑な壁面処理、伝統から切り離された合理性を信条としたモダニズム建築を提唱。スラブ、柱、階段のみが建築の主要要素だとする「ドミノシステム」を考案し、組積造(石積み・レンガ積み)による伝統的な建築から脱却した。都市計画の分野でもパリ改造計画案を発表したほか、CIAM 第4回会議でル・コルビュジエらが提案したアテネ憲章(1933年)は、公開空地など、以後の都市計画理論に多大な影響を与えた。彼が手掛けた建築模型や図面、家具は、20点以上がニューヨーク近代美術館に収蔵されており、代表作である「LC2 Grand Confort(大いなる快適)」は、デザイン家具の歴史上、大きな功績を残した作品である。
1920年「エスプリ・ヌーボー
(新しき精神)」誌を創刊し、同誌に発表した建築、絵画から文学にまで及ぶ論文をまとめたもの。世界中の建築家から注目を集め、彼の建築論の原型をなすものとなった。この著作の中の「家は住むための機械である」という言葉は、彼の建築思想の代表的なものとしてよく引用される。
建築に限らずモノには機能が備わっている必要がある。船には水に浮かび水上を移動する機能が必要であり、飛行機には空を飛ぶ機能が必要だ。同様に住宅には住むという機能が必要だ。
鉄筋コンクリートを利用し、装飾のない平滑な壁面処理、伝統から切り離された合理性を提唱した。
1914年にル・コルビュジエが提唱したドミノ・システムは、鉄筋コンクリート造の水平スラブと周囲でそれを支える最小限の柱、各階へのアクセスを可能とする昇降装置を構成要素とした住宅の建設方法であり、その後10年以上にわたりル・コルビュジエの設計手法の基礎をなした。
構造躯体と内装や設備を完全に分離すると定義したもので、現在で言うS&I( スケルトン & インフィル )
そのものであった。またドミノとはコルビュジェが考案した造語でフランス語のドムとイノを組み合わせたもの。「ドム」は家、「イノ」は新しいという意味であり、
彼が示した思想は住宅におけるまさに革新的な考えであった。
モデュロールはフランス語で寸法を意味するモデュール(module)と黄金比(sectiond'or)を組み合わせた造語で、ル・コルビュジエが第二次世界大戦中に考案した建築の基準寸法システム。ダ・ヴィンチの《人体図》などをふまえて、ル・コルビュジエは、人間の身長(ヨーロッパ型で183センチメートル)と臍の高さが黄金比になることに注目すると、人間の身体寸法をフィボナッチ数列を使って分割し、独自の寸法体系として展開させた。建築においてモデュールは、建築の工業化、生産効率などの問題として考えられることが一般的であったが、ル・コルビュジエは、人体の寸法と合わせることで、モデュールに建築の機能的な問題を加味することに成功した。
1925年アール・デコ博に出展された。1922年に発表した集合住宅案の1ユニットだけを取り出して作った、正方形に近い住宅で、左端に見えている曲面の壁は、超高層ビルが立ち並ぶ都市改造案「ヴォワザン計画」のための展示室になっている。前庭にはリプシッツによる彫刻が置かれた。住宅部分は1階にキッチン、ダイニング、書斎、2階にバス、トイレと客室、寝室があり、吹き抜けになっている広いリビングの大きな窓が印象的。このプランはそれまでの建築の文法であった様々な建築意匠を否定し、建築や装飾美術の標準化・規格化を目指すものであったため、博覧会の委員会で物議を醸した。
20世紀の住宅の最高作品の一つであり、フランスの歴史的建築物に指定されている。
サヴォア邸はモダニズム以前の装飾的で重厚な西洋的伝統建築とは大きく異なり、空間を大胆に使ったことで、当時の建築家たちに大きな衝撃を与えた。ドミノスラブと柱で支えており、梁は存在しない。ピロティを使うことにより、居住部分がまるで空中に浮かんでいるかのような印象を与え、水平連続窓はたっぷりと光を取り込むことで室内を明るくし透明感を与える。水平連続窓は室内を明るくするだけでなく、時間とともに移り変わる日光の色が室内に映えるようにも設計されている。また、素材には、当時では新しい素材であった鉄筋コンクリートを使用している。
機能性・合理性を重視したモダニズムの表現とは異なり、コルビュジエ後期の代表作とされる。
シェル(貝殻)構造を採用しうねった屋根、それを浮かせるように支える巨大な外壁のマッス(塊り)、その厚い壁にランダムに穿たれた小さな開口部から幾条もの光が差し込む内部空間が特徴とされる。とくに正面ファサードはカニの甲羅を形どったとされる独特な形態で、薄い屋根の構造技法をも含め、鉄筋コンクリートが可能にした自由で彫塑的な造形を示している。
ベルトコンベヤーを使用した流れ作業方式。アメリカのヘンリー・フォードが20世紀の初め、自動車生産用にベルトコンベヤーを採用し、大量生産を開始してから、フォードの大量生産方式という意味でフォードシステムという言い方が広まった。1903年フォード自動車会社を設立したフォードは、自動車を贅沢品ではなく、だれにでも利用できる大衆車として生産することを目標とし、機能的・頑丈・保守が容易・安価を実現し、1908年に大衆車
T
型フォードを発表した。コンベヤーの使用により生産台数は飛躍的に増大し、1914年にはアメリカ国内における自動車生産台数の約半分をフォード一社でまかなうほどになった。労働時間も、当時多くの工場では1日10時間程度であったのを、フォード社では8時間労働制を行うと共に、週休二日制を導入した。
また、日給2ドルを、倍以上の5ドルにあげると決断し、「日給5ドル宣言」を行った。これにより、連日、労働者が押し寄せた。賃金は2倍以上になるのだが、むしろ経費は下がった。その理由として、「
大量の採用広告費用がゼロ」「次々と新しく採用する工員の教育研修費用がゼロ」「採用の専属部門をカット」「入れ替えによる教育時間をカット」などがある。
フォード・システムは作業員の怠業を一掃し、工場全体をシステム化し、生産性の向上に役だった。そのため、このような方法は機械工場のみならず各方面で採用されることとなった。一方、働く人の人間性を無視した方法であるという非難の声も出てきた。しかし、生産性を考えると、今日でもこの方法に勝るものは実現していない。
アメリカ映画。チャールズ・チャップリンが監督・製作・脚本・作曲を担当した喜劇映画。労働者の個人の尊厳が失われ、機械の一部分のようになっている世の中を笑いで表現し、機械文明・合理化・リストラ・富の二極化・進む資本家と行政の管理といった現代社会の功罪を風刺。自動給食マシーンの実験台にされるシーンや、チャップリンが歯車に巻き込まれるシーン、ラストのチャップリンとヒロインが手をつないで道を歩いてゆくシーンなどが有名である。
ベルトコンベアーを用いた流れ作業の導入により、フォードは過去に例のない自動車の大量生産を実現した。
機械生産による工業製品の質的・デザイン的向上を図り、ドイツの産業振興を達成するため、建築家でプロイセンの貿易省工芸美術主任であったヘルマン・ムテジウスを中心にドイツで組織された芸術家・工芸家・建築家・実業家・デザイナー・評論家の団体。DWBと略記される。1907年ミュンヘンで結成され、1910年以降オーストリア・イギリス・スイス・スウェーデンでも同様の連盟が生まれた。
名称を「工作連盟」と変えることによって、それまでの「工芸運動」から決別
。機械生産品に、形と意味を与える方法としてデザインを提唱し、インダストリアルデザインの始まりとなり、モダンデザインの発展の上で大きな足跡を残した。
ムテジウスの標準化の思想は当初反発も呼んだが、メンバーの一人であるヴァルター・グロピウスがドイツのヴァイマルに設立した芸術学校『バウハウス』は、ドイツ工作連盟の理念に大きな影響を受けている。
1906年~1914年にペーター・ベーレンスが電機メーカーAEGのためにデザインした広告・製品・タービン工場の建築にドイツ工作連盟の実践が現れている。
ベルリンの「AEG タービン工場」は、コンクリート、鉄、ガラスといった近代の材料を使い、工場という実用的な構造物を芸術的な建築へと高めた例として注目されている。
1927年ミース・ファン・デル・ローエの指揮のもと、シュツットガルトで開かれたドイツ工作連盟主催の住宅展覧会(ヴァイセンホーフ・ジードルング)のために作られた集合住宅も大きな成果である。
「近代建築の五原則」を発表したル・コルビュジエが実験的な住宅として提案したのが、この「ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅」。
ドイツの建築家、編集者、作家。イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動から影響を受け、モリス運動の波及をつぶさに調査し、ドイツ国内にその運動を宣伝した。
ドイツ政府の官吏として、「ドイツ工作連盟」の理念でもある芸術と産業の近代化に尽力し、それを支える工芸学校教育システムの改革に腐心した。また、彼の幅広い批評活動は、数々の書籍や新聞雑誌記事として公開され、当時のデザイン理念の動向に大きな影響を与えた。
部分的な装飾より、全体的な造形に重きを置き 即物的なデザインの美しさに注目。 美的手段による国民文化を確立するため、「型」や「標準」 を定義。 ムテジウスは「機械様式」というものが二十世紀の
デザインの目標でなければならないと考え、生産方法として規格化を採用することにより、 質の良い物を社会に普及させる方式を提案。
しかし、ヘルマン・ムテジウスは大量生産による商品の規格化を重視したため、1914年に行われた『第1回ドイツ工作連盟ケルン展』をきっかけに、作家個人の芸術性を主張するアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデとの間に『規格化論争』(「美術家は自己の性向に従うべきか、工作連盟の一員
として、標準化に協力すべきか」という論争)が起こり、最終的には自身の主張を取り下げ、ドイツ工作連盟内での指導的な立場を次第に失ってしまった。
ドイツ出身の著名な建築家、都市計画家で、表現主義建築の主要な実践者の一人として知られている。彼はまた、ヴァイマル共和国期のドイツのモダニスト建築を牽引したデザイン団体「デア・リング」のメンバーでもあった。
彼の作品は、彩色ガラスと明るい色彩を特徴とした個性的なデザインが特徴で、特に「アルプス建築」(1917年)などの理論的な著作で彼の理想的な、色彩豊かで神秘的な建築ビジョンが示されている。彼の実際の建築プロジェクトには、ベルリンの大規模な住宅地域である「馬蹄形住宅」(1925年-1930年)や、ヴァイマル共和国のさまざまな都市で建設された「ツォラウス・ハウゼ」(1926年-1933年)などがある。
彼のキャリアは第二次世界大戦とナチスの台頭により大きく影響を受けた。1933年にヒトラーが政権を握ると、タウトはドイツを離れ、日本、トルコなどを経て最終的にはトルコに移住した。彼はトルコで教職に就き、同国の近代建築の発展に寄与した。また、彼の日本滞在中に書かれた「日本の建築と生活」は日本の建築についての洞察を提供し、西洋と日本の建築の橋渡しの役割を果たした。
1914年にケルンで開催されたドイツ工作連盟のケルン展覧会において、ドイツのガラス産業協会のためにガラスのパビリオン「グラスハウス」が建設され、このパビリオンが大きく評価される。
このパビリオンのプリズムドームに見られるように、タウトは前衛的な未来の理想と技術を採用し、単にガラスを表面や装飾材料として使用するのではなく、ガラスで建物全体を作った。
ベルリンの中心部への通勤を可能とするこの開発は、馬蹄形のデザインと、すべての家にテラスガーデンがあるという社会的な理想を実現させた。馬蹄形の長さ350メートルの湾曲した構造物は、池の周りに配置され、25の住宅ユニットで構成されている。
すべての住宅ユニットには、バスルームとキッチン、独立したベッドルームがあり、この基準は当時革命的であった。
釉薬瓦を備えた石炭オーブンがすべてのリビングルームとベッドルームに設置され、キッチンには、シンク、2つのバーナーを備えたガス炊飯器、ビルトインの食器棚があった。
20世紀初頭の重要なモダニスト建築家である。ドイツ出身で、バウハウス学派の創設者として知られる。彼のデザインと教育の理念は、現代の建築とデザインに深い影響を与えている。
1919年、グロピウスはバウハウス学派を設立した。バウハウスは芸術と工芸を統合するという理念に基づいていた。この学派の教育は総合的で、多くの芸術分野をカバーしていた。バウハウスの理念は、「形は機能に従う」というモダニストデザインの原則を強調していた。
グロピウス自身の建築作品は、その明快さ、機能性、技術的な革新性で知られる。彼の重要な作品には、バウハウスのデッサウ校舎やフーガースヴェルクの住宅地区、そしてハーバード大学のグラッドウェル・ハウスが含まれる。
1933年にナチスが政権を掌握した後、グロピウスはドイツを離れ、最終的にアメリカに移住した。ハーバード大学の建築学部で教鞭をとり、アメリカのモダニスト建築の発展に大きく貢献した。
世界遺産になっているが、現在でも靴型工場として稼動している。ファグス工場の設計に大きな影響を与えた建築物は、ペーター・ベーレンス設計のAEGタービン工場。グロピウスとマイヤーはそのプロジェクトでともに働いており、彼らの師に当たるベーレンスの作品に対する解釈と批評を、ファグスをもって示している。ファグスの本館はタービン工場の倒置と見なすことも可能であり、グロピウスは「壁の役割は、雨や寒さや騒音を防ぐために架構の直立柱の間に張られた、単なるスクリーンとしてだけに限定される」と述べている。
初めはミュンヘンで画家・グラフィックデザイナーとして活動し、1892年、ミュンヘ
ン分離派に参加。1900年にはダルムシュタットの芸術家村のメンバーとなっている。建築家に転じ、ヘルマン・ムテジウスのドイツ工作連盟に参加。
1907年にベルリンに事務所を開設。電機メーカー AEG
のデザイン顧問に就き、同社タービン工場の設計を手がけ、モダニズム建築初期の代表的作品になった。また、ガス給湯器や照明器具、家電、文房具、タイプライターといった工業製品のデザインも手がけ、
最初のインダストリアルデザイナーと呼ばれる。彼のデザインした会社ロゴは各種の AEG製品に使用され、これがコーポレートアイデンティティの先駆けとなった。1910年にはル・コルビジェ、ヴァルター・グロピウス、
ミー ス・ファン・デル・ローエがベーレンスの会社で働いた。
各種の AEG 製品に使用され、コーポレート・アイデンティティ(ロゴ)の先駆けとなった。
かたち、素材、表面の仕上げ、サイズ、それぞれに3つの選択肢があり、それらを組み合わせた30種類が商品化された。このやかんは、旧来の道具に新しい機能を融合し、共通のパーツを組み合わせて商品を展開する、今日の家電や自動車といった大量生産品の先駆けといえる。
AEG ロゴが配されている
AEG ロゴが配されている
芸術家村「マチルダの丘」(ダルムシュタット)で、ベーレンスは自邸の設計を行い、さらに自邸の家具、絵画、陶器やタオルなど、インテリアや小物のデザインをしたことで建築家としてだけでなく、デザイナー、アーティストとしても名声を高めることとなった。
1927年、ドイツ工作連盟主催の住宅展覧会で、シュトゥットガルト郊外ヴァイセンホーフの丘に建設された実験住宅群。ドイツを中心に17人の建築家が参加し、モダニズム建築の実践の場となった。
ミース・ファン・デル・ローエが全体計画を立て、ミース、ル・コルビュジエ、グロピウス、アウト、シャロウン、P・ベーレンス、タウトなど
当時の近代建築運動を担う建築家たちがそれぞれ住宅を設計・建設した。
背景として、19世紀後半から人口集中、スラムの発生など都市問題が 深刻となり、イギリスの田園都市構想にも刺激を受け、1920年代にドイツ各地で集合住宅が建設されていた。