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アール・デコ アメリカ編

アメリカン・アール・デコ

アール・デコの最大の特徴は抽象的な幾何学模様とコントラストの強い色使いである。アール・ヌーヴォーが優美で曲線的な植物や女性のフォルムを取り入れたのに対し、アール・デコは自動車や船のフォルム、またそのパーツであるエンジンや歯車といった機械的なモチーフにインスピレーションを得て生まれたと言える。
絵画、工芸、建築、ファッションなどあらゆる分野にわたる新しい時代のうねりは、このパリ博を機に諸外国へと広がっていった。多くのアメリカ人はその斬新さを自国に持ち帰ろうとし、加速度的に情報化が進む中で、機械とそのイメージはなかば手放しで受け入れられていった。アール・デコの面白さは、個性的でありながら厳格な様式を持たず国や環境によってさまざまに変化していった点にあるが、ことに産業の発達と生活の変化が著しかったアメリカにおいては、より大胆で大衆的な傾向が見られる。機械のイメージを与える幾何学模様はあらゆるものに登場し、流行のスタイルとして商業的にも大きな効果をもたらした。モチーフとしては円、直線といった抽象的な形、色では強い原色と光輝く金属色が一番の人気であった。

「アール・デコ建築」の代表は「ニューヨークの摩天楼」を構成する建築群

1920年代から1930年代にニューヨークに建てられた、クライスラー・ビルやエンパイアステート・ビル、ロックフェラーセンターなど「ニューヨークの摩天楼」を形作るビル群は、アール・デコ様式の代表的な建築。
クライスラー・ビルは、外装デザインや内装にアール・デコの装飾が施された高層ビルで、古典的アール・デコ様式の代表的建築とされる。ガラス貼りの超高層ビルで内部に柱のない広いオフィス空間が造られており、ミース・ファンデル・ローエはクリア・スパン構造と呼んだが、一般にはユニヴァーサル・スペースとして広まった。

ユニバーサル・スペース

機能によって決まらない自由な空間、または必要に応じて形状を変えることのできる多目的な空間を指す。
伝統的な建築では、各部屋は特定の目的(寝室、キッチン、リビングルームなど)に合わせて設計され、その機能が決まっていた。しかし、モダニズム建築では、壁を取り払い、スペースを自由に使えるようにすることで、建物全体を一つの「ユニヴァーサル・スペース」に変えるというアイデアが主流となった。
ル・コルビュジエの「ドミノの家」はこの概念を具体化した初期の例であり、列柱とスラブで構成されたフレーム構造が自由な空間計画を可能にしている。また、ミース・ファン・デル・ローエの「ファンズワース邸」では、ガラスと鋼鉄の構造を使って、内部空間の区分けを最小限に抑え、柔軟性と自由度を最大限に引き出すデザインが施されている。

クライスラー・ビルディング

アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンに位置する超高層ビルである。建築家ウィリアム・ヴァン・アレンにより設計され、アール・デコ様式で建てられた。このスタイルは、1920年代と1930年代に人気で、装飾的で幾何学的なデザインが特徴となっている。
1930年当時、世界で最も高い建物であった。その最も顕著な特徴は、頂上部分のテラコッタとステンレススチールで装飾された独特のスパイアで、これはアール・デコ様式の優れた例である。
建物は自動車産業の巨人、ウォルター・P・クライスラーの成功を讃えるために建てられた。そのデザインには自動車の装飾的要素が取り入れられている。例えば、頂上部のアーチ型の窓はクライスラーのハブキャップを模し、ビルの各階のエクステリアの装飾もクライスラー製の車の装飾を反映している。
内部はマーブルとクロムで装飾され、エレベーターロビーにはエドワード・トラシュクの壁画があるなど、アール・デコスタイルの豪華な内装が施されている。その美しさと独自性により、クライスラー・ビルディングはニューヨークのランドマークとなっている。

エンパイア・ステート・ビルディング

建築家集団、リッチモンド・H・シュリーブ、ウィリアム・F・ラム、アーサー・L・ハーモンの3名によって設計された、マンハッタン島を代表する高級ホテル。
1931年、エンパイアステートビルはニューヨークの中心部、マンハッタン5番街に完成した。地上102階建て、頂上までの高さ443メートルを誇るエンパイアステートビルは、完成からおよそ40年間、世界で最も高い建物であった。
アメリカの産業力を示す証として建設されたこのビルは、世界初の100階を超える高層建築物となった。その鉄骨フレームは驚異的な最新技術の結晶と評され、アールデコ調のデザインは世界中から訪れた来場者の心に焼き付いた。
このビルの優れた設計が生んだ傑作のひとつが、ロビー全体を覆う巨大な天井画。伝統的なアールデコ調で表現された天空の世界には23Kの金でできた星や太陽、歯車がちりばめられている。

ロックフェラー・センター

ニューヨーク州ニューヨーク市ミッドタウンマンハッタンの5番街および6番街にある超高層ビルを含む複数のビルからなる複合施設。設計はレイモンド・フッド他による。
大富豪のジョン・D・ロックフェラーによって1930年から建設された。前年に起きた大恐慌の影響で、その後建築計画が変更され、全ての建築物が完成したのは9年後の1939年であった。
建物の外観だけでなく、完璧なシンメトリーに設計された屋上庭園や1ミリの狂いもない見事なアーチ型をしたラジオ・シティ・ミュージック・ホールの内部のデザインもアール・デコを象徴している。

流線型(ストリームライン) のデザイン

1930年代、アメリカを中心に流行した曲線的デザイン形態。アメリカン・アール・デコ様式のひとつ。カーブした外形、長く延びた水平線、そして時には欄干や丸窓といった海事的な要素を強調したもの。絶頂期は1937年。
本来の目的は鉄道機関車などの空気抵抗を減らすために考案された、丸みを帯びた先端から後に向かって直線を延ばしたフォルムだが、これが鉄道車両をはじめ自動車や日常生活品にも応用され、家庭の中に急速に浸透し始めた機械類に、こざっぱりとした外観のケースを施すことで、本来の機能よりも、優雅で新しいといったイメージの流線型という形そのものがもてはやされることになった。当時は鉄道や自動車はもちろん、家電製品や食器に至るまであらゆる物に流線型デザインが用いられた。
その背景には交通と工業が発達して現代に繋がる都市のモダンな生活様式が確立したという文化的な背景があった。

引用:artscape

インダストリアルデザイナー(工業デザイナー)の登場

「インダストリアルデザイン」という言葉は、1920年代のアメリカで使われ始めたといわれる。もともと設計と意匠形状は技術者が共に手掛けていた。レイモンド・ローウィらの活動により1920年代末から1930年代には、デザインの優劣が製品の売り上げさえ左右することが次第に認識されるようになった。
インダストリアルデザイナーは大量生産・大量消費の時代を迎え、短期間のモデルチェンジなど、市場の倫理や要望を消化し反映するという必要から出現した職業である。当初は美術家、建築家、工芸家などが顧客である企業の委託を受け、プロジェクト単位で関わることもあった。

ウォルター・ドーウィン・ティーグ

ウォルター・ドーウィン・ティーグは、20世紀初頭のアメリカを代表する工業デザイナーである。彼はアメリカの工業デザインのパイオニアとして、製品のデザインをただ形状や色彩にとどまらない、より広範な視野で捉える新たなアプローチを確立した。

ティーグは様々な製品のデザインに関与し、それぞれに彼の持つ独自の美学と機能主義の哲学を反映した。その製品はカメラ、タイプライター、飛行機、そして家電製品に至るまで多岐にわたる。彼は製品の形状だけでなく、その使いやすさや生産効率、そしてその製品が持つ社会的な意味・生活での役割についても深く考えた。

ティーグの影響は現代の工業デザインにも引き継がれており、彼のアプローチは製品をただ目に見える形状としてではなく、ユーザーの体験と生活の一部としてデザインすることの重要性を我々に教えてくれる。彼の仕事はデザインが単なる美学だけでなく、より広範な視点から物事を考えることの重要性を示している。

引用:ajcc

レイモンド・ローウィ(1893~1986)

電気工学を学ぶ。第一次世界大戦後の1919年にニューヨークへ渡り、メイシー百貨店などの店舗装飾やハーパース・バザー誌でファッション・イラストレーション、グラフィックなどの仕事を始めた。1920年代半ばにデザインを請け負う事務所を開設する。
1929年、ジグムント・ゲシュテットナー社の複写機のデザインを手がけ、これが評判になり大きく売り上げを伸ばした。
1934年、ペンシルバニア鉄道の電気機関車GG1を風洞実験の結果、かろやかな流線型にリ・デザインする。この流線型デザインは力学的な形態の倫理により発見・設計され、以後、自動車など速度を要求される対象に採用される時代が始まった。速度、進歩、現代性などの表現として、様々なデザインにも引用される様になった。このような形状(流線型(ストリームライン・モダン))は時代の流行となり、当時のアール・デコスタイル装飾に用いられるなど主要なモチーフにもなった。デザインが流行として消費され、陳腐化させられる時代の到来でもあった。1938 年にアメリカ市民権を取得し140社もの企業のデザイン・コンサルタントをつとめた。

「売れるデザイン」こそが「良いデザイン」だときわめて米国的に経済的に考える。

引用:otogusushop

デザインマーケティング

マーケティングとは

経営学者であるピーター・ドラッカー「マーケティングの目的は、販売を不要にすることだ」 と述べている。コトラーによれば、マーケティングの定義は「どのような価値を提供すればターゲット市場のニーズを満たせるかを探り、その価値を生みだし、顧客にとどけ、そこから利益を上げること」 である。マーケティングは、商品やサービスなどの「価値」を顧客に「いかに売り込むか」を問うものではない。 顧客のニーズを十分に理解することにより、そのニーズを満たすことができる価値を創造し、「売り込みをしなくても自然に売れてしまう状態を作ること」こそがマーケティングの理想である。

フォードの失策とT型フォードの生産停止

ベルト・コンベヤーを使った移動組み立てラインで画期的な大量生産を生み出し、T型フォード(モデルT)は低価格化を実現。最終的に1500万台以上が生産された。これがフォード・システムである。しかし、1909年以降、フォードは生産する車種を黒のモデルTに限定、部品の標準化を展開し、20年間、基本的なモデルチェンジをしなかった。それが結果的に市場を飽和させ、大衆は同じ車両に飽きてしまった。1927年にはT型フォードは生産中止に追い込まれてしまった。

GM(ゼネラル・モーターズ)のデザイン戦略

デザインと広告を重視したGMは、車をファッションとして売り出すという戦略に出る。自社の大衆車「シボレー」に多彩な塗装を用意してユーザーにアピール。ボディー・デザインなども年ごとにモデル・チェンジして、車を服飾と同じようなモード商品とすることに成功した。
綿密な市場調査を徹底し、大衆車から高級車まで、幅広い製品を並べて販売網を整備する戦略をとった。また、製品のラインナップには明確な原則が定められ、GM 車同士の競合を無くすため、生産数などをコントロールした。

GM(ゼネラル・モーターズ)デザインの新設

GM社は所得階級別に車へ欲求が異なることに気づき、製品のラインナップを生み出した。スタイリングデザインの誕生である。
1927年のラ・サールをデザインしたハーレー・アールを雇い、ゼネラルモーターズの製品において「アートとカラー・コンビネーションの研究」をする新しい部門を創設した。世界初のデザイン部署を持つ自動車メーカーとなった。
コンセプト・カーの開発からはじまり、毎年のモデル・チェンジ、自動車業界で初めて女性デザイナーの採用もした。
カーデザインを自動車の製造過程の一部ととらえ、GM社の車体スタイルに必要なのは「空想的な世界を意識した」デザインを取り入れることだと考えた。
車をひとつのまとまった造形物と考え、次に、車をより長くより低く創ること、そして消費財に象徴性を取り入れることを目指した。これはGM社の車のイメージに対するブランディング戦略である。
また、「商品のかたち、広告のかたち」によって欲望を開発し、「生活者」を「消費者」へと囲い込んでいった。この市場を作り上げていく方法は、自動車産業だけでなく産業全体へと拡大した。

ヘンリー・ドレイファス(1904~1972)

アメリカの工業デザイナー。幅広い消費者および市販品の多数のデザインで世界的に評価を受けている。何十もの消費者製品の見た目、感触、有用性を劇的に改良した。彼はデザインの問題に対して常識と科学的アプローチを適用した。彼の作品は公共消費のために場を大衆化し、人間工学、人体測定、人間要素の根底にある分野に大きな貢献を果たした。
人間の要求する”問題解決 ”の形式として、デザイン活動に厳格にアプローチ。ユーザーテストを重視し、レイモンド・ローウィや他の同時代のデザイナーのようにスタイリングから感性を満たすデザインを考えるのではなく、使う側の視点にたって、どのようにしたら分かりやすく・使いやすいのかという課題を整理し、エンジニアとの協力関係のもとに実現していく方法をとった。
また「インダストリアル・デザインのための基準」として以下の内容を提唱。

デザインを供給側からではなく、需要側から評価するという点で、現代のマーケティングや「ヒューマンセンタードデザイン」「ユーザビリティデザイン」に通じる考え方をしている。

引用:鈴木公明「インダストリアル・デザインの誕生」
引用:gstatic

フランク・ロイド・ライト(1867~1959)

ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる。高さを抑え、水平線を強調した佇まい、部屋同士を完全に区切ることなく、あたかも大地に共感しながら連続し展開するリズムを感じさせるプレーリースタイルという建築で有名になった。1906年のロビー邸はその代表作である。
装飾と壁を無くし、同じ空間にいながら、柱の死角や床の高低差で別の部屋という認識を持たせる、流れるような空間の連続性を大切にし、モダニズムの流れをくんだ幾何学的なデザインを特長としている。
「有機的建築」という建築理念を提唱しており、建築は人間の有機的な生活を反映させた質的なものであり、建築物は外部の自然と調和をはかるべきだと主張し、実現している。
「まさに自然の中に溶け入るように、しっくりと納まるように、そしてその地の風景、その地の生命のリズムを乱さぬように建物を建てるべきだ」と述べた。
これはル・コルビュジエらの機能主義建築と対立する考え方で、環境や住む人の豊かさに焦点を当て、機能を重視しながらも機能と形態、人間的な感情表現とのダイナミックな均衡を説いた。

引用:RedShift「リスペクト : フランク・ロイド・ライトのデザインが時代を超える3つの理由」
引用:建築知識の入門ブログ「有機的建築」
引用:コトバンク「有機的建築」
引用:gstatic

フランク・ロイド・ライト「グッゲンハイム美術館」1959年

この美術館は、白いスパイラル形の建築物として知られ、その形状は伝統的な箱型の美術館とは大きく異なる。ライトはこの建物を、「建築の自由な精神」の表現としてデザインし、そのスパイラル形状のラーメン構造は、その意図を強調している。

美術館の内部は、連続したスパイラル状の通路で構成されており、これにより訪問者は、始点から終点まで一貫した流れの中で作品を鑑賞することができる。この革新的なデザインは、美術館の訪問を一種の旅行とし、訪問者に独自の経験を提供する。

グッゲンハイム美術館は、ライトのオーガニック建築の理念を具現化したものであり、形状、空間、機能が一体となっている。この美術館は、その斬新な設計と美術鑑賞の新しい方法を提供することで、20世紀の建築のマイルストーンとなった。

フランク・ロイド・ライト「カウフマン 落水荘」1937年

フランク・ロイド・ライトが1937年に設計した「カウフマンの落水荘」は、その斬新な設計と自然環境との緻密な結びつきから、20世紀の最も象徴的な住宅の一つとされている。

この家はペンシルヴァニア州の森の中に建てられ、落水という名前は、家が直接滝の上に建設されたことから名付けられた。ライトはこの特異な設計を選び、自然の一部として家を設計することで、彼の「オーガニック・アーキテクチャー」の哲学を具体化した。

落水荘の設計は、ホリゾンタルなラインとカンチレバーのテラス、そして自然の石を用いたマテリアルを特徴としている。これらはすべて、建物が周囲の自然環境と調和し、そしてその一部となるように助けている。

内部の設計もまた、自然光を最大限に活用し、屋内と屋外の境界を曖昧にすることを重視している。開放的な間取りと大きな窓は、森の景観を最大限に楽しむことを可能にしている。

「カウフマンの落水荘」は、フランク・ロイド・ライトのオーガニック建築の理念を最も完全に体現した作品の一つである。それは建築が自然環境と一体となり、人間の生活を豊かにすることができるという彼の信念を示している。この家は、その革新性と美しさから、現代建築の代表的な作品となっている。

フランク・ロイド・ライト「旧帝国ホテル」1921年

フランク・ロイド・ライトが設計した「旧帝国ホテル」は、1923年に日本の東京に完成し、その革新的な設計と技術から、ライトの代表作の一つとされている。

このホテルは、東京の地震多発地帯に位置していたため、ライトは地震に対する強さを重視した設計を行った。彼の革新的なアプローチは、「カントリーヴァー構造」を取り入れることで、建物が地震の衝撃を吸収し分散できるようにした。この設計のおかげで、ホテルは同年に起こった大正大地震を耐え抜いた。

建築デザイン面では、ライトは日本の伝統的な美学と自然素材を取り入れ、西洋と東洋の要素を組み合わせることで、ユニークな外観と内部空間を創り出した。特に、ホテルのエントランスやロビーは、自然の石と木材、そしてステンドガラスを用いて装飾され、独特な雰囲気を醸し出していた。

この斬新なアプローチは、建築が文化的、社会的、地理的な状況に適応することができるという彼の信念を具体化したものである。

残念ながら、ホテルの主要部分は1967年に取り壊されたが、エントランスロビーとレストランの一部は、名古屋市の明治村で保存・公開されている。