TOP

#011

ミッドセンチュリーのデザイナー その1

戦後アメリカの第2世代のデザイン

20世紀半ばの1940~60年代にブームになった家具や建築物のデザインを指す。ミッドセンチュリーデザインの発祥の地は、アメリカ。
第二次世界大戦後、グロピウス、ミース、ブロイヤーなど、ヨーロッパの建築家やデザイナーがアメリカに移住し、大学などで授業を持ち、デザイン理論と教育の面で影響力を持った。
彼らの教育を受けた、第2世代のデザイナーは、1940年代に活動を開始し、ヨーロッパにおけるバウハウスや北欧のモダンデザインを意識しつつ、アメリカのモダニズムを実現した。ジョージ・ネルソン、チャールズ・イームズ、エーロ・サーリネン、ポール・ランドといったデザイナーが活躍した。
時代背景として、戦後、アメリカは戦時に自国を戦場としなかったため、産業の復活が早く、当時の世界経済の半分、生産能力と機械施設においては半分以上を保有する強豪国となっていた。
さらにアメリカは戦時中に軍需産業によって新しい技術を生み出し、FRP(ガラス繊維強化プラスチック)やプライウッド(成型積層合板)といった素材を開発した。
FRP、プライウッドの技術が出来た事で、デザイナー達は木材などの素材自体を変形させた曲線のデザインを家具に取入れることが出来るようになった。また、戦後の明るい時代を体現するようなポップなカラーが使われるようになり、ミッドセンチュリーの特徴となった。
さらに、戦争から帰還した兵士たちが家庭を持ち、家を建てるようになり、家具の需要が高まった。そこに生産量を一気に増やせるシンプルな形状で、デザイン性の高いミッドセンチュリーデザインの家具が登場し、世界的に人気となった。

引用:DESIGN KAGU COM「インテリアデザインの革命児たち ミッドセンチュリーのデザイナー」
引用:TWIST「ミッドセンチュリーのデザイナー10選!愛され続けるモダンデザインの源」
引用:vanillla!「ミッドセンチュリーとは?」

チャールズ・イームズ(1907~1978)

アメリカのデザイナー・建築家・映像作家。妻のレイ・イームズと共に、積層合板やプラスチック、金属といった素材を用いて、20世紀における工業製品のデザインに大きな影響を与える作品を残した。
1938年に建築家・プロダクトデザイナーのエーロ・サーリネンとデザイン工房を立ち上げ、1940年にニューヨーク近代美術館開催の「オーガニック家具デザイン」コンペに応募。成型合板を使った椅子、棚、机を出品し6部門中2部門で優賞。彼らの作品は、アルヴァ・アールトの開発した木材成型の新技術を見事に利用し、3次元の立体曲線によって背面と座面、肘掛けを継ぎ目なしで繋いだ「シェル構造」を生み出した。
成型合板の技術を発展させ、椅子をはじめとする家具、彫刻作品、骨折時に使う添え木や担架、飛行機の部品まで制作。添え木「レッグ・スプリント」は海軍で採用され、第2次世界大戦終了までの間に15万本以上も製造された。「レッグ・スプリント」はイームズの手がけた最初の大量生産品となった。1950年代もイームズ夫妻は建築、家具のデザインを続け、初期に手掛けた合板加工だけでなく、プラスチック、繊維強化プラスチック、ワイヤーを素材とした椅子をデザインし、ジョージ・ネルソンに招かれ、家具メーカーのハーマンミラー社に提供した。
初期はローコストでミニマルを意識したデザインだったが、1956年にイームズラウンジチェアという座り心地を追求した高コストなデザイン家具を作るなど幅広い製品を手掛けることになる。また、タイグレット (チグレット) 社と協力することで子供向け玩具もデザインしている。
一方で、ショートフィルムの製作にも興味を示し、1960年代以降は、ショートフィルム製作と展覧会プロデュースを主な活動としている。ショートフィルムの作品には未完の処女作「旅する少年(Traveling Boy)」(1950年)、代表作「パワーズ・オブ・テン(Powers of Ten)」(1977年)などがある。

引用:名作家具とデザインの話「チャールズ・イームズの生涯と詳しい説明」

イームズハウス

「イームズハウス」は、戦後に需要が増大した住宅の大量供給のモデルを提案するため、アメリカの建築雑誌『arts&architecture』が1945年~1966年にかけて掲載した36のケース・スタディ・ハウスの8番目としてイームズ夫妻が設計したもの。
鉄骨から内装材に至る、その部材の全てがアメリカ国内で流通していた既製品によって構成されており、工業化時代の新しい建築のあり方を示すものとして、記念碑的な位置づけをされている。
最初、太平洋を見下ろすL字型の住宅兼アトリエを設計するつもりで、丘からドラマティックに張り出す住宅を建てる予定だったが、1947年には、イームズ夫妻は計画をもっとシンプルにし、長い擁壁沿いに家を建てることにした。設計の意図は、再設計の前に発注してあった同じ標準品の鉄骨を使いつつ、よりシンプルな住宅をつくることだった。

イームズ夫妻とハーマンミラー

イームズ夫妻は家具のデザインを通してハーマンミラーとの40年以上の関係において、ほとんどのことに関わってきた。彼らは、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスのショールームから、アイコニックなカタログ、パンフレット、広告、そして自分たちが開発した新しく革新的な製品を説明するためのプレゼンテーションにいたるまでデザインした。
これらいくつかの製品の情報を伝えるために、チャールズとレイは、後に彼らが好んで使うようになったやり方を探求した。それが映像であった。
1950年代から1970年代にかけて、イームズオフィスは125本以上の映像を制作。これら映像のうちの何本かはハーマンミラーのために制作され、イームズが映像の制作に進出するきっかけになった。これらの映像は、製品の機能だけでなく、それを使う人々の暮らしにどのような意味をもたらすかを観る人に教えている。

補足

製造工程

引用:FLANNEL magazine「成型合板の魅力と特徴」

エーロ・サーリネン(1910~1961)

アメリカにおいて活躍した建築家、プロダクト・デザイナー。フィンランド人。多くの建築物や家具を手がけたが、シンプルで印象的なアーチ状構造を多く作品に取り入れていることで知られている。
1937年、父エリエルと共同で建築設計事務所を設立。1950年にエリエルが逝去するまで勤め、数々の設計を手がけた。1940年にはチャールズ・イームズとともに、ニューヨーク近代美術館開催の「オーガニック家具デザイン」コンペに応募する。成型合板を使った椅子、棚、机を出品し6部門中2部門で優勝した。
彼が注目を浴びるようになったのは、1948年、ミズーリ州セントルイス市に西部への国土拡大と開拓を記念して建設される国立公園、ジェファーソン・ナショナル・エクスパンション・メモリアルの主要部となる記念碑の『ゲートウェイ・アーチ』(デザインコンペの優勝案)によってであった。高さ192m、幅192mに達する巨大なアーチは設計に難航したが1965年に竣工し、セントルイスおよび西部開拓のシンボルとして親しまれている。
特に有名なジョン・F・ケネディ国際空港のTWAターミナルビル(TWAフライトセンター)など、コンクリート・シェル構造を用いた流れるような曲面の表現主義的なスタイルの建築で一世を風靡した。彼は建築の中の内装や家具デザインも手がけており、チューリップチェアに代表される、その曲線を用いた未来的なデザインも20世紀中期を代表するものである。

引用:prabook

ジョージ・ネルソン(1910~1961)

1946年から20年間ハーマンミラー社でデザイン部長を務める。その間、当時無名だったチャールズ・イームズ、レイ・イームズ夫妻の才能を見出し、同社のデザイナーとして起用する。他にもイサム・ノグチ、エーロ・サーリネンらを招き、同社を一躍世界的な家具メーカーへと成長させた。
イェール大学で建築を学び、ローマのアメリカンアカデミーで、ヨーロッパの主要な建築作品と、モダニズムの中心人物達について学んだ。
その後1935年~1944年まで建築雑誌「アーキテクチュラル・フォーラム」の編集に携わる。ハーマンミラーの創業者 D・J・デ・プリーは、ネルソンが編集した雑誌の、住宅建築と家具デザインに関する記事に感銘を受け、ハーマンミラーのデザインディレクターへの就任を依頼。自身の建築事務所を設立すると共に1946年、ハーマンミラー社のデザイン・ディレクターに就任。その後1966年までの20年間、「ココナッツチェア」「マシュマロソファ」「スワッグレッグ・グループ」など20世紀を代表する革新的製品を数多く発表すると共に、ハーマンミラー社のカタログのグラフィックデザインも手掛けた。
また、自らのデザインに関する考えについて、多くの記事と11冊の本に残している。近年、Phaidonより彼の文章をまとめたHow to Seeが再版されている。

引用:yamagiwa online store「ジョージ・ネルソン」 引用:vitra「ジョージ・ネルソン」

エリオット・ノイズ(1910~1977)

ハーバード大学で建築を学ぶ。学校の図書館で客員講師のル・コルビュジエに会い、彼の建築観は一変する。また、ヴァルター・グロピウスとマルセル・ブロイヤーがハーバード大学に赴任し、大学にモダニズム精神が浸透した。エリオット・ノイズはハーバード大学デザイン大学院で建築学の学位を取得した。その後、ヴィルター・グロピウスの元で働き、1940年代にニューヨーク近代美術館の工業デザインのキュレーターとしてチャールズ・イームズとエーロ・サーリネンの初期の作品の促進に尽力もしている。
1956年にIBMにスカウトされ、その後21年間働き、IBMにデザインカルチャーを根付かせた。そのために、高明なデザイナーたちを招聘し、自らはコンサルティング・デザイン・ディレクターとして作業を進めた。まず最初にデザインの刷新として手がけたのはタイプライター。競合に遅れをとっていたタイプライターにカラフルなラインナップを整備、1961年にIBM Selectric タイプライターを完成させ、広くアメリカで普及された。

さらに、IBMの副社長を歴任し、彼のデザイン理論とビジョンはIBMの製品、ビジュアルアイデンティティ、コーポレートカルチャー全体に深く影響を与え、現代に至るまで語り継がれている。
「良いデザインは良いビジネス」を掲げたノイズの理念は、デザインの価値を企業戦略の一部として強調した。この新たな視点は、製品の価値と成功がデザインの品質に大きく依存するという認識の普及に寄与した。
ノイズがIBMで最も認知されている貢献の一つは、IBMの統一された視覚言語の開発である。全ての製品と通信に一貫したビジュアルを作り出し、IBMブランドを統一感のあるものにし、認識性を高めることに成功した。これはアメリカの企業で最初のデザイン・プログラムとなった。
現在の「エイトバー」と呼ばれるIBMのロゴはノイズが招聘したデザイナーの一人であるポール・ランドによるデザインである。

エリオット・ノイズの影響力はIBMだけにとどまらず、デザインとビジネスの世界全体に広がっている。彼の理念は、製品やサービスがどのように見え、どのように機能し、そしてそれが人々の生活にどのようにフィットするかを考えるためのフレームワークを提供している。これらの考え方は、現代のユーザーエクスペリエンス(UX)デザインやユーザーインターフェース(UI)デザインの原則を形成する重要な要素となっている。

引用:IBMトレンド「企業に新たな想像力をもたらす「IBM デザイン思考」」
引用:Wikipedia

ポール・ランド(1914~1996)

アメリカの著名なグラフィックデザイナー。様々な企業のロゴデザインで知られる。グラフィック・デザインにおけるスイス・スタイルの創始者のひとりである。1972年、ニューヨークのアート・ディレクターズ・クラブの殿堂入りを果たした。
作品として多くのコーポレートアイデンティティやポスターがあり、IBM、UPS、ABCテレビ、NeXTのものがよく知られる。
デザイナーとしては独学で、Gebrauchsgraphikなどの欧州の雑誌に掲載されていたカッサンドルやモホリ=ナジの作品から学んでいた。
20代の初めにはすでに国際的な注目を集めるようになり、雑誌Directionのカバーでは、ついにはモホリ=ナジの賞賛も受けている。
ランドの仕事を端的にあらわすコーポレートアイデンティティは彼によって1956年にデザインされたIBMのロゴである。これは「単なるアイデンティティではなく、この企業全体の意識と一般への受容に深く浸透した基本的なデザイン哲学となった」と評されている。ロゴは1960年にランド自身によって改変され、1972年にはストライプのものが誕生する。
彼は「デザイナーの芸術」(著者:ポール・ランド)の中で「独自のものや刺激的なものを生み出すためにアイデア自体が難解なものになる必要はない」と指摘している。こうした最小限志向な理想と、ロゴは「最大限のシンプルさと慎ましさをもってデザインしなければ生き残るものにはならない」という理念は、彼のABCテレビのためのロゴに典型的に示されている。
高齢になってからも制作に旺盛で、80年代、90年代に入ってからも多くのコーポレートアイデンティティを制作し続けた。後期の代表作の一つとして「NeXT」社(スティーブ・ジョブス創業)のロゴがある。ロゴ制作に10万ドルが支払われている。
社名を二行に分けたシンプルな黒い立方体のロゴをデザインし、ジョブズはその視覚的な調和をいたく気に入った。「存命中の最も偉大なグラフィック・デザイナー」と称し、またランドの仕事を話題にした1993年のインタビューでは、「私が会った中で最も玄人な人間のひとり」、「深い思想家」、「個性的な芸術家」と述べている。

引用:IBM100「International Business Machinesの誕生」
引用:SeleQt「ポール・ランドと彼がデザインした世界的に有名な会社のロゴにまつわる物語【IBM・UPS・NeXT】」
引用:Wikipedia

※スイス・スタイル

1950年代にスイスで発展した、清潔感・可読性・客観性を追求した グラフィックデザインの様式

ポール・ランド ロゴ

引用:LogoBook「Paul Rand's Logo Design」

引用:LogoBook「Paul Rand's Logo Design」

引用:LogoBook「Paul Rand's Logo Design」

イサム・ノグチ(1904~1988)

日本人詩人の野口米次郎とアメリカ人作家のレオニー・ギルモアとの間に生まれる。アメリカで彫刻を学び、その後インテリアデザイン、照明を手掛け、北大路魯山人から陶芸も学んでおり、多彩かつ異彩な経歴をもつ。庭や公園などの造園や作庭、舞台芸術まで手掛け、多方面の芸術に触れている彼ならではの製作と言える作品を残している。
第二次世界大戦の勃発に伴い、在米日系人の強制収容が行われた際に志願拘留された。しかし、アメリカ人との混血ということでアメリカ側のスパイとの噂が立ち、日本人社会から冷遇されたため、自ら収容所からの出所を希望するも今度は日本人であるとして出所はできなかった。後に芸術家仲間フランク・ロイド・ライトらの嘆願書により出所、その後はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構えた。
終戦後、ノグチは 1947年にジョージ・ネルソンの依頼で「ノグチ・テーブル」をデザイン・制作するなど、インテリア・デザインの作品を手掛ける。
1970年には大阪で行われた日本万国博覧会の依頼で噴水作品を設計。1972年にはコロンビア大学より名誉博士号を授与され、ニューヨーク州知事賞を受賞。1986年開催のヴェネツィア・ビエンナーレ(第42回)のアメリカ代表に選出され、同年日本の稲森財団より京都賞思想・芸術部門を受賞、1987年にはロナルド・レーガン大統領からアメリカ国民芸術勲章を受勲している。

引用:Wikipedia

ミッド・センチュリー・北欧諸国のデザイン

アメリカからミッド・センチュリーが北欧にも伝わり、北欧でもモダンデザイン家具が生まれた。特にデンマークでは名作が数多く生まれ。その名声は北欧内にとどまらず、1954年から57年にかけて『デザイン・イン・スカンジナビア展』が北米を巡回するなど、世界中におよんだ。北欧モダンデザインはヨーロッパのバウハウスの合理主義の影響なども受けつつも、シンプルで機能的な上、クラフト的な温かさを併せ持っている。北欧では自然と共に生きるという考えが根底にあり、環境への配慮がデザインの基本にある。

引用:Fika「ミッドセンチュリーって何?5人の北欧デザイナーに学ぶ」

アルヴァ・アールト(1898~1976)

フィンランドが生んだ20世紀を代表する世界的な建築家、都市計画家、デザイナー。その活動は建築から家具、ガラス食器などの日用品のデザイン、絵画までと多岐にわたる。スウェーデンのグンナール・アスプルンドと並んで、北欧の近代建築家としてもっとも影響力があった1人であり、モダニズムに対する人間的なアプローチで知られる。ユーロ導入まで使用されていた50フィンランド・マルッカ紙幣に肖像が描かれていた。
地域性と国際性、モダンな建築と伝統的な様式、機能性と芸術性、自然と都市のバランスを大切にした設計・デザインを貫いた。
国際的な建築家として知られる出世作となったのは1928年に行なわれたコンペで一等を獲得したパイミオのサナトリウムであった。この作品は北欧でモダニズム建築が台頭するきっかけになった作品の一つである。
また、1935年に竣工したヴィープリの図書館に見られる波形にうねる曲線による木製の天井は、モダニズムの空間に相反するフィンランドの伝統的材料である木材を用いることで、アールト独自のモダニズムのあり方を押し進めるきっかけとなり、曲線と木材の使用はアールトの作風の一つともなった。(ちなみに「アールト」はフィンランド語で「波」を意味する)
1937年のパリ博覧会で入賞し、世界的に有名になったアールト・ベース(花瓶)も曲線を用いたオーガニックなフォルムとなっている。

引用:Wikipedia

アルネ・ヤコブセン(1902~1971)

デンマークのデザインを世界中に広めた代表的人物。デンマークデザインの伝統を基礎としながら、ミース・ファン・デル・ローエなどのモダニストの影響を受ける。
1929年フレミング・ラッセンと共にコンペに向けてモダニズムの形式をとった「未来の家」を発表。モダニズムの旗手の一人としてデンマーク国内において一躍注目を集めた。これにより、その名が広まるところとなり、「ベラヴィスタ集合住宅」をはじめとする大規模リゾート計画やデンマーク第二の都市であるオーフスの市庁舎を手掛けるが、第2次世界大戦中はスゥエーデンへ亡命。帰国後、1946年に「スーホルム集合住宅」では非対称の屋根を採用するなど新しい概念を持ち込んだテラスハウスを発表。
1950年代初めからは後に世界的な評価を得ることになる家具デザインを始めた。1952年からのアントチェア、スワンチェアとともにラディソンホテルで設計されたエッグチェアなど、彼の家具デザインの多くがモダン様式の手本になっている。彼の最も知られた作品は 1955年のセブンチェアであり、500万本以上を販売している。製造は発表当時、フリッツ・ハンセン社が手がけていた。現在では、複数の企業が製造している。
建築における理想を追求したデザイン、家具までも含めた一貫性と言う点においてミース・ファン・デル・ローエに影響を受けたと自ら語っている。

引用:Wikipedia
引用:fritzhansen

ハンス・J・ウェグナー(1914~2007)

デンマークの家具デザイナーである。生涯で500種類以上の椅子をデザインし、20世紀の北欧デザイン界に多大な影響を与えた。その椅子はニューヨーク近代美術館をはじめ多くでコレクションされている。
1940年~1943年にかけて、アルネ・ヤコブセンの事務所に勤務。アルネ・ヤコブセンが手掛けたオーフスの市庁舎内の会議室で使われている家具を担当した。自身のスタイルを模索するなか、中国・明の時代の「圏椅(チュェン・イ)」と呼ばれる曲線が特徴的な椅子を書物の中に見つけ、そこからインスピレーションを得て、最初に発表されたのが「チャイナチェア」であり、さらにリデザインを繰り返して1950年に発表されたのが、「Y チェア」である。
1960年、ケネディとニクソンが大統領選を戦っていた時、アメリカで初めてテレビ討論会が行われ、そこでイメージ戦略に成功。当時、ケネディはどのように対談をすれば、印象をスマートで品格よくできるかと考え、着目したのが「椅子」であった。世界から数十の椅子をかき集め、その中で「THE CHAIR」を選んだ。ここからウェグナーは世界から脚光を浴び、続々と名作チェアが生まれていった。
ウェグナーならではのフォルムや美しい接合部を創り出す基盤となっているのは、家具職人としての技術と知識。そして美的センスは、木材への深い造詣と、天然素材への探究心がベースとなっている。これが、ミニマリスティックでありながら温もりのある、オーガニックなフォルムを創り出している。

引用:maarket
引用:インテリアショップ体験記「【北欧家具の巨匠ハンス・J・ウェグナーとは」

ヨーン・ウツソン(1918~2008)

デンマーク・コペンハーゲン出身の建築家。シドニー・オペラハウスの画期的なデザインで、高く評価されている建築家。オーストラリア・シドニーに建設されるオペラ・ハウスの建築設計コンペに応募したが、彼が提出した設計案は図面ではなくアイデアを書き留めたドローイング程度に過ぎないものだったため、応募基準に合わないと落選していた。しかし、審査委員だった建築家エーロ・サーリネンが、コンクリート・シェル構造の自由な造形で建物を覆い支えるアイデアを気に入り、最終選考に復活させ強く支持し、採用された。
以後数年間、ウツソンはオペラ・ハウスの建設の指揮と設計の修正に取り組んだ。当初のデザインに大幅な変更を加えつつ、現在のような球面を組み合わせたような形に変え、不可能とされたコンクリート・シェルを実際に建てるための案を確立していった。
内装についても設計案を作っていたが、この部分は不本意な形で中止されてしまった。1965年の半ばの選挙で、建築主であるニューサウスウェールズ州政府の首相がロバート・アスキンに変わり、設計者の地位を辞任することになった。シドニーに移した事務所を引き払ってオーストラリアを去り、以後二度とシドニーの地を踏むことはなかった。デンマークに戻る途中、彼は地中海のマリョルカ島に立ち寄ってその風光に印象を受け、後に妻のリズの名を採った夏の別荘を建てている。
シドニー・オペラハウスは、その後を引き継いだ建築家チームの手で完成し、1973年に開館。以後世界的に著名な建築として親しまれている。2003年、ウツソンはオペラハウス設計の栄誉を称えられ、シドニー大学から名誉博士号を授与された。2000年には建築界の最大の栄誉であるプリツカー賞を受賞し、2007年、シドニー・オペラハウスは、ユネスコの世界遺産に登録された。

引用:インテリアショップ体験記「【北欧家具の巨匠ハンス・J・ウェグナーとは」 引用:pinterest

ウルム造形大学 (1953~1968)(ドイツ)

ドイツのデザイン学校。1955年正式に開校。バウハウスの精神を受け継ぎながら、徹底的な議論の中からデザインと科学、哲学、社会思想などとの接点を探求し,近代デザインの理論と実践の発展に大きく貢献した。初代学長はマックス・ビル。開校時の学部はプロダクト・デザイン・ビジュアル・コミュニケーション・建築・情報の四つで、後に映画制作も加わる。産学協同のデザイン・プロジェクトに取り組み、中でもブラウン社との仕事は有名。ハンス・ギュズロとディーター・ラムスの共作のラジオ付きレコードプレーヤー〈SK-55〉(1956 年)などを生み出し、同社の〈機能美〉に徹するという企業哲学の形成にまで深く関わった。他にも優れたデザインを多くの企業との間に生み出し、デザインを単なる造形や理論ではなく、科学やテクノロジーとの密接な関係をもって、生産過程の中で実践した。
そして、ドイツでは幾何学的なシンプルさとミニマリズムを追求する、新機能主義が支持された。

引用:Fika「ミッドセンチュリーって何?5人の北欧デザイナーに学ぶ」

ディーター・ラムス(1932~)

ドイツのインダストリアルデザイナーで、家電製品メーカーであるブラウン社と密接に関わるとともに、インダストリアルデザインにおける「機能主義」派の人物。電気機器メーカーであるブラウンに入社、1961年よりデザイン部門のディレクターとして約40年間に渡り、500を超える名作を世に送り出した。
コーヒーメーカー、計算機、ラジオ、オーディオ/ヴィジュアル機器、消費家電およびオフィス機器など、彼が手がけたデザインの多くは、ニューヨークのニューヨーク近代美術館など、世界中のさまざまな博物館の収蔵品となっている。
自らのデザインアプローチを「Less, but better(より少なく、しかしより良く)」と語っている。
iMacやiPod、iPhoneをデザインしたAppleのジョナサン・アイブも、彼を尊敬しており、iPhoneの計算機アプリケーションには、ラムスがデザインしたBraun ET66計算機からの影響が明らかであるとされている。
彼は今なおデザイン業界において伝説的存在とされており、最近では雑誌Wallpaper のデザインも手がけている。

ディーター・ラムスによる「良いデザイン」の十ケ条

革新的である / Good design is innovative.
実用をもたらす / Good design makes a product useful.
美的である / Good design is aesthetic.
理解をもたらす / Good design makes a product understandable.
謙虚である / Good design is unobtrusive.
誠実である / Good design is honest.
長命である / Good design has longevity.
最終的にディティールへと帰結する / Good design is consequent down to the last detail.
環境への配慮とともにある / Good design is environmentally friendly.
可能な限りデザインを抑制する / Good design is as little design as possible.

引用:Wikipedia