20世紀半ばの1940~60年代にブームになった家具や建築物のデザインを指す。ミッドセンチュリーデザインの発祥の地は、アメリカ。
第二次世界大戦後、グロピウス、ミース、ブロイヤーなど、ヨーロッパの建築家やデザイナーがアメリカに移住し、大学などで授業を持ち、デザイン理論と教育の面で影響力を持った。
彼らの教育を受けた、第2世代のデザイナーは、1940年代に活動を開始し、ヨーロッパにおけるバウハウスや北欧のモダンデザインを意識しつつ、アメリカのモダニズムを実現した。ジョージ・ネルソン、チャールズ・イームズ、エーロ・サーリネン、ポール・ランドといったデザイナーが活躍した。
時代背景として、戦後、アメリカは戦時に自国を戦場としなかったため、産業の復活が早く、当時の世界経済の半分、生産能力と機械施設においては半分以上を保有する強豪国となっていた。
さらにアメリカは戦時中に軍需産業によって新しい技術を生み出し、FRP(ガラス繊維強化プラスチック)やプライウッド(成型積層合板)といった素材を開発した。
FRP、プライウッドの技術が出来た事で、デザイナー達は木材などの素材自体を変形させた曲線のデザインを家具に取入れることが出来るようになった。また、戦後の明るい時代を体現するようなポップなカラーが使われるようになり、ミッドセンチュリーの特徴となった。
さらに、戦争から帰還した兵士たちが家庭を持ち、家を建てるようになり、家具の需要が高まった。そこに生産量を一気に増やせるシンプルな形状で、デザイン性の高いミッドセンチュリーデザインの家具が登場し、世界的に人気となった。
引用:DESIGN KAGU COM「インテリアデザインの革命児たち ミッドセンチュリーのデザイナー」
引用:TWIST「ミッドセンチュリーのデザイナー10選!愛され続けるモダンデザインの源」
引用:vanillla!「ミッドセンチュリーとは?」
アメリカのデザイナー・建築家・映像作家。妻のレイ・イームズと共に、積層合板やプラスチック、金属といった素材を用いて、20世紀における工業製品のデザインに大きな影響を与える作品を残した。
1938年に建築家・プロダクトデザイナーのエーロ・サーリネンとデザイン工房を立ち上げ、1940年にニューヨーク近代美術館開催の「オーガニック家具デザイン」コンペに応募。成型合板を使った椅子、棚、机を出品し6部門中2部門で優賞。彼らの作品は、アルヴァ・アールトの開発した木材成型の新技術を見事に利用し、3次元の立体曲線によって背面と座面、肘掛けを継ぎ目なしで繋いだ「シェル構造」を生み出した。
成型合板の技術を発展させ、椅子をはじめとする家具、彫刻作品、骨折時に使う添え木や担架、飛行機の部品まで制作。添え木「レッグ・スプリント」は海軍で採用され、第2次世界大戦終了までの間に15万本以上も製造された。「レッグ・スプリント」はイームズの手がけた最初の大量生産品となった。1950年代もイームズ夫妻は建築、家具のデザインを続け、初期に手掛けた合板加工だけでなく、プラスチック、繊維強化プラスチック、ワイヤーを素材とした椅子をデザインし、ジョージ・ネルソンに招かれ、家具メーカーのハーマンミラー社に提供した。
初期はローコストでミニマルを意識したデザインだったが、1956年にイームズラウンジチェアという座り心地を追求した高コストなデザイン家具を作るなど幅広い製品を手掛けることになる。また、タイグレット (チグレット) 社と協力することで子供向け玩具もデザインしている。
一方で、ショートフィルムの製作にも興味を示し、1960年代以降は、ショートフィルム製作と展覧会プロデュースを主な活動としている。ショートフィルムの作品には未完の処女作「旅する少年(Traveling Boy)」(1950年)、代表作「パワーズ・オブ・テン(Powers of Ten)」(1977年)などがある。
イームズ夫妻によってデザインされた20世紀を代表する名作。当時開発されたばかりのFRP(ガラス繊維強化プラスチック)を使うことで、自由な曲面を製作することができるようになり、シェル構造を形成し、高い耐久性と量産性を兼ね備えたことで、良質なデザインを誰もが所有できるようになった。豊富なカラーのシェルと、用途に応じたさまざまなベース(脚)を組み合わせることで、幅広い用途に対応することができる拡張性の高さも魅力。
アメリカ海軍の依頼で作製し、量産された。戦争中に脚を骨折したアメリカ軍兵士を搬送するために使われた添え木(レッグスプリント)。終戦後、イームズ夫妻はレッグスプリントのために開発したプライウッド(成形合板)の成形技術を応用し、名作家具を次々と生み出した。
イームズ夫妻が木材を蒸気と圧力で成型する方法について試行錯誤をしていたところ、米海軍がこれに目をつけ夫妻に医療用の添え木や担架などの開発を依頼。このときの資金と経験がイームズ夫妻にプライウッドの成型に関する豊富な技術の蓄積を与えた。終戦後はプライウッド成型の技術を生かした軽やかで現代的な家具をデザインし、20世紀を代表するデザイナーとして一躍有名になった。このLCWプライウッドチェアはプライウッド家具の代表の1つ。
MoMA(Museum of Modern Art)が、1940年に開催した「近代家具のオーガニックデザインコンペ(ローコスト家具デザインコンペ)」にエーロ・サーリネンとの共同でエントリーして出品し優勝した作品。 成型合板で曲面を設計してその周りに布をはり、柔らかい形状とすわり心地を実現している。この後誕生するシェルチェアシリーズの原型を思わせるデザインとなっている。
チューリップチェアなどのローコストでミニマルなデザインとは対照的な、座り心地を追求したハイコストなラウンジチェア。19世紀のイギリスのクラブチェアを20世紀版に解釈したものと評されている。成形合板技術を生かしてはいるものの、プライウッドチェアやシェルチェアといったシンプルな家具デザインとは一線を画し、ボリュームのある豪華なデザインが人々を座りたい気持ちにさせる。
引用:名作家具とデザインの話「名作家具イームズラウンジチェアの詳細解説と模倣品について【製造風景からメンテナンスまで】」
「イームズハウス」は、戦後に需要が増大した住宅の大量供給のモデルを提案するため、アメリカの建築雑誌『arts&architecture』が1945年~1966年にかけて掲載した36のケース・スタディ・ハウスの8番目としてイームズ夫妻が設計したもの。
鉄骨から内装材に至る、その部材の全てがアメリカ国内で流通していた既製品によって構成されており、工業化時代の新しい建築のあり方を示すものとして、記念碑的な位置づけをされている。
最初、太平洋を見下ろすL字型の住宅兼アトリエを設計するつもりで、丘からドラマティックに張り出す住宅を建てる予定だったが、1947年には、イームズ夫妻は計画をもっとシンプルにし、長い擁壁沿いに家を建てることにした。設計の意図は、再設計の前に発注してあった同じ標準品の鉄骨を使いつつ、よりシンプルな住宅をつくることだった。
「Anything I can do she can do better(何でも彼女の方が上手くできるんだ)」。チャールズ・イームズはこんな言葉を残している。チャールズががいかに妻のレイの才能を讃え、信頼していたかが分かる。
イームズ夫妻は家具のデザインを通してハーマンミラーとの40年以上の関係において、ほとんどのことに関わってきた。彼らは、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスのショールームから、アイコニックなカタログ、パンフレット、広告、そして自分たちが開発した新しく革新的な製品を説明するためのプレゼンテーションにいたるまでデザインした。
これらいくつかの製品の情報を伝えるために、チャールズとレイは、後に彼らが好んで使うようになったやり方を探求した。それが映像であった。
1950年代から1970年代にかけて、イームズオフィスは125本以上の映像を制作。これら映像のうちの何本かはハーマンミラーのために制作され、イームズが映像の制作に進出するきっかけになった。これらの映像は、製品の機能だけでなく、それを使う人々の暮らしにどのような意味をもたらすかを観る人に教えている。
ハーマンミラーがファイバーグラスシェルチェアを紹介してから約20年後に登場したこの映像は、設計段階から製造、組み立てや梱包にいたるまで、デザインと製品に着目している。バディ・コレットの音楽に合わせて演出された。
成型合板とは、1mm程に薄くスライスした木材(単板)を一枚ずつ重ねて接着し、熱を加えながら型にはめて曲面状に形作った木工技術のこと。主に椅子に用いられる技術で、ゆがみや反りが出にくい製造方法。
積層合板とは、上記の成型合板を曲げる前の、単板を重ね合わせた状態。しばしば積層合板と成形合板が混同されるが、曲げ加工前の状態を「積層合板」、曲げ加工後の状態を「成型合板」と呼ぶのが正しい。
また曲木とは無垢材に水分と熱を加え、圧縮し曲げる技術。成型合板との大きな違いは、主に無垢材を曲げるための加工を指す。
引用:FLANNEL magazine「成型合板の魅力と特徴」
貝殻、卵の殻、容器のように、曲面状の薄い外壁で外力に抵抗して所要の機能を果たすものをシェルといい、シェルの力学的特性を利用した曲面状薄壁構造物をシェル構造という。建築物の屋根用のシェル構造としては、鉄筋コンクリート構造が用いられるほか、曲面板状立体トラス構造とすることも多い。航空機の機体、潜水艇、液体貯槽には金属板製のシェル構造が用いられる。
コンクリートシェル構造
金属板シェル構造
アメリカにおいて活躍した建築家、プロダクト・デザイナー。フィンランド人。多くの建築物や家具を手がけたが、シンプルで印象的なアーチ状構造を多く作品に取り入れていることで知られている。
1937年、父エリエルと共同で建築設計事務所を設立。1950年にエリエルが逝去するまで勤め、数々の設計を手がけた。1940年にはチャールズ・イームズとともに、ニューヨーク近代美術館開催の「オーガニック家具デザイン」コンペに応募する。成型合板を使った椅子、棚、机を出品し6部門中2部門で優勝した。
彼が注目を浴びるようになったのは、1948年、ミズーリ州セントルイス市に西部への国土拡大と開拓を記念して建設される国立公園、ジェファーソン・ナショナル・エクスパンション・メモリアルの主要部となる記念碑の『ゲートウェイ・アーチ』(デザインコンペの優勝案)によってであった。高さ192m、幅192mに達する巨大なアーチは設計に難航したが1965年に竣工し、セントルイスおよび西部開拓のシンボルとして親しまれている。
特に有名なジョン・F・ケネディ国際空港のTWAターミナルビル(TWAフライトセンター)など、コンクリート・シェル構造を用いた流れるような曲面の表現主義的なスタイルの建築で一世を風靡した。彼は建築の中の内装や家具デザインも手がけており、チューリップチェアに代表される、その曲線を用いた未来的なデザインも20世紀中期を代表するものである。
FRP(ガラス繊維強化プラスチック)を使用している
国立公園ジェファーソン・ナショナル・エクスパンション・メモリアルの主要部192mx192m
コンクリート・シェル構造を用いた流れるような曲面の表現主義的なスタイル建築
MITの講堂。隣のチャペルと同時期に計画された。シェル構造の屋根をわずか3点で支えている。
1946年から20年間ハーマンミラー社でデザイン部長を務める。その間、当時無名だったチャールズ・イームズ、レイ・イームズ夫妻の才能を見出し、同社のデザイナーとして起用する。他にもイサム・ノグチ、エーロ・サーリネンらを招き、同社を一躍世界的な家具メーカーへと成長させた。
イェール大学で建築を学び、ローマのアメリカンアカデミーで、ヨーロッパの主要な建築作品と、モダニズムの中心人物達について学んだ。
その後1935年~1944年まで建築雑誌「アーキテクチュラル・フォーラム」の編集に携わる。ハーマンミラーの創業者 D・J・デ・プリーは、ネルソンが編集した雑誌の、住宅建築と家具デザインに関する記事に感銘を受け、ハーマンミラーのデザインディレクターへの就任を依頼。自身の建築事務所を設立すると共に1946年、ハーマンミラー社のデザイン・ディレクターに就任。その後1966年までの20年間、「ココナッツチェア」「マシュマロソファ」「スワッグレッグ・グループ」など20世紀を代表する革新的製品を数多く発表すると共に、ハーマンミラー社のカタログのグラフィックデザインも手掛けた。
また、自らのデザインに関する考えについて、多くの記事と11冊の本に残している。近年、Phaidonより彼の文章をまとめたHow to Seeが再版されている。
1947年に時計コレクションのデザインを依頼された。ネルソンは、デザインするにあたり、人々がどのように時計を使用しているかを調査。その結果、人々は文字盤の数字ではなく針の位置関係を見ることによって時間を読み取っている、という結論に至り、それまで時計に必要と思われていた数字を使わないデザインを生み出した。同時に、当時、ほとんどの人が腕時計を使用しており、インテリアにおける時計は装飾的な役割が高くなっている事にも気がついた。
このアイデアは、1949年に発表された14個の時計に反映され、それらは、これまでに類を見ない形や色、素材使いの、バリエーション豊富なデザインの時計コレクションになった。
ラウンジチェアの快適さを保ちながら、椅子の上で自由に身動き出来るものを目指してデザインがスタート。
出来上がったこの椅子は側面をカットされながらも座面は曲面を描いた特徴ある見た目となり、先端が3つある三角形のクッションは、ココナッツを8等分したうちの一かけらのようだとネルソンは述べている。
ジョージ・ネルソンと彼のデザイン事務所で働いていた若手デザイナー、アーヴィング・ハーパーのもとに、一人の発明者から売り込みがあった。持ち込まれてきたのは円盤状に射出成型されたプラスチック。発明者の話によれば、安価に製造でき、耐久性もあるとのことであった。二人のデザイナーはこの素材を一目見ると、スチール製のフレームに18個を並べて取り付けた。これがネルソンマシュマロソファの始まり。
発明者が持ち込んだクッションは、結局、実用的でないことがわかったが、ネルソンとハーパーは自分たちが何気なく生み出したデザインに興味を持ち続け、ハーマンミラーがそれを製造することを決定。
ばらばらであった要素をつなげ、それらが宙に浮いているように見せることで、ネルソンとハーパーは、このソファーにユニークな外見と人目をひく魅力を与えた。そして、このネルソンマシュマロソファーこそが、1960年代のポップアートのスタイルに向かう道を開くことになった。
ベンチとしてだけでなく、机としても利用できる。
キャビネットと蓄音機ケースをベンチの上に載せて新しいインテリアに
ハーバード大学で建築を学ぶ。学校の図書館で客員講師のル・コルビュジエに会い、彼の建築観は一変する。また、ヴァルター・グロピウスとマルセル・ブロイヤーがハーバード大学に赴任し、大学にモダニズム精神が浸透した。エリオット・ノイズはハーバード大学デザイン大学院で建築学の学位を取得した。その後、ヴィルター・グロピウスの元で働き、1940年代にニューヨーク近代美術館の工業デザインのキュレーターとしてチャールズ・イームズとエーロ・サーリネンの初期の作品の促進に尽力もしている。
1956年にIBMにスカウトされ、その後21年間働き、IBMにデザインカルチャーを根付かせた。そのために、高明なデザイナーたちを招聘し、自らはコンサルティング・デザイン・ディレクターとして作業を進めた。まず最初にデザインの刷新として手がけたのはタイプライター。競合に遅れをとっていたタイプライターにカラフルなラインナップを整備、1961年にIBM Selectric タイプライターを完成させ、広くアメリカで普及された。
さらに、IBMの副社長を歴任し、彼のデザイン理論とビジョンはIBMの製品、ビジュアルアイデンティティ、コーポレートカルチャー全体に深く影響を与え、現代に至るまで語り継がれている。
「良いデザインは良いビジネス」を掲げたノイズの理念は、デザインの価値を企業戦略の一部として強調した。この新たな視点は、製品の価値と成功がデザインの品質に大きく依存するという認識の普及に寄与した。
ノイズがIBMで最も認知されている貢献の一つは、IBMの統一された視覚言語の開発である。全ての製品と通信に一貫したビジュアルを作り出し、IBMブランドを統一感のあるものにし、認識性を高めることに成功した。これはアメリカの企業で最初のデザイン・プログラムとなった。
現在の「エイトバー」と呼ばれるIBMのロゴはノイズが招聘したデザイナーの一人であるポール・ランドによるデザインである。
エリオット・ノイズの影響力はIBMだけにとどまらず、デザインとビジネスの世界全体に広がっている。彼の理念は、製品やサービスがどのように見え、どのように機能し、そしてそれが人々の生活にどのようにフィットするかを考えるためのフレームワークを提供している。これらの考え方は、現代のユーザーエクスペリエンス(UX)デザインやユーザーインターフェース(UI)デザインの原則を形成する重要な要素となっている。
IBMが1961年に発表し、アメリカで広く普及した電動タイプライター。印字部品の形状から「IBM ゴルフボール タイプライター」と呼ばれる事もある。通常のタイプライターはタイプバー(印字アーム)が「バスケット状」になっているが、Selectricでは中核となる印字部品が「タイプボール」(typeball)と呼ばれ、同一の文書の途中でも異なったフォントに変える事ができた。それは60年前にBlickensderfer typewriterによって近代的なタイプライターが登場して以来の、能力の向上であった。Selectricはまた、伝統的なタイプライターでの、ペーパーローラー(platen)を使用したムービングキャリッジによる紙送りを、タイプボールとインクリボンが左右に動くメカニズムに置き換えた。
Selectric とその後継タイプライタは、後にアメリカのビジネス用の電動タイプライタの75%シェアを獲得した。
アメリカの著名なグラフィックデザイナー。様々な企業のロゴデザインで知られる。グラフィック・デザインにおけるスイス・スタイルの創始者のひとりである。1972年、ニューヨークのアート・ディレクターズ・クラブの殿堂入りを果たした。
作品として多くのコーポレートアイデンティティやポスターがあり、IBM、UPS、ABCテレビ、NeXTのものがよく知られる。
デザイナーとしては独学で、Gebrauchsgraphikなどの欧州の雑誌に掲載されていたカッサンドルやモホリ=ナジの作品から学んでいた。
20代の初めにはすでに国際的な注目を集めるようになり、雑誌Directionのカバーでは、ついにはモホリ=ナジの賞賛も受けている。
ランドの仕事を端的にあらわすコーポレートアイデンティティは彼によって1956年にデザインされたIBMのロゴである。これは「単なるアイデンティティではなく、この企業全体の意識と一般への受容に深く浸透した基本的なデザイン哲学となった」と評されている。ロゴは1960年にランド自身によって改変され、1972年にはストライプのものが誕生する。
彼は「デザイナーの芸術」(著者:ポール・ランド)の中で「独自のものや刺激的なものを生み出すためにアイデア自体が難解なものになる必要はない」と指摘している。こうした最小限志向な理想と、ロゴは「最大限のシンプルさと慎ましさをもってデザインしなければ生き残るものにはならない」という理念は、彼のABCテレビのためのロゴに典型的に示されている。
高齢になってからも制作に旺盛で、80年代、90年代に入ってからも多くのコーポレートアイデンティティを制作し続けた。後期の代表作の一つとして「NeXT」社(スティーブ・ジョブス創業)のロゴがある。ロゴ制作に10万ドルが支払われている。
社名を二行に分けたシンプルな黒い立方体のロゴをデザインし、ジョブズはその視覚的な調和をいたく気に入った。「存命中の最も偉大なグラフィック・デザイナー」と称し、またランドの仕事を話題にした1993年のインタビューでは、「私が会った中で最も玄人な人間のひとり」、「深い思想家」、「個性的な芸術家」と述べている。
引用:IBM100「International Business Machinesの誕生」
引用:SeleQt「ポール・ランドと彼がデザインした世界的に有名な会社のロゴにまつわる物語【IBM・UPS・NeXT】」
引用:Wikipedia
1950年代にスイスで発展した、清潔感・可読性・客観性を追求した グラフィックデザインの様式
パンチ・カードによる統計機事業からコンピューターへの難しい転換を乗り切るために、ブランド・エクイティーの力を借りた。ベトン・ボールドと呼ばれる書体による、シンプルな「IBM」の文字に代わった。
それまでのベトン・ボールド書式がシティー・ミディアム書体に変わり、「IBM」の文字はより重厚でしっかりとした、バランスの取れた形になった。「B」の真ん中の2つの空白部分が真四角になって見やすくなっていることに注目。
「エイトバー」と呼ばれているロゴ。数十年にわたって変わっておらず、世界で最もよく知られた企業ロゴの一つとして広く知れ渡っている。重厚な文字に代わって横のストライプとなり、「スピードとダイナミズム」が表現されている。
引用:LogoBook「Paul Rand's Logo Design」
引用:LogoBook「Paul Rand's Logo Design」
引用:LogoBook「Paul Rand's Logo Design」
日本人詩人の野口米次郎とアメリカ人作家のレオニー・ギルモアとの間に生まれる。アメリカで彫刻を学び、その後インテリアデザイン、照明を手掛け、北大路魯山人から陶芸も学んでおり、多彩かつ異彩な経歴をもつ。庭や公園などの造園や作庭、舞台芸術まで手掛け、多方面の芸術に触れている彼ならではの製作と言える作品を残している。
第二次世界大戦の勃発に伴い、在米日系人の強制収容が行われた際に志願拘留された。しかし、アメリカ人との混血ということでアメリカ側のスパイとの噂が立ち、日本人社会から冷遇されたため、自ら収容所からの出所を希望するも今度は日本人であるとして出所はできなかった。後に芸術家仲間フランク・ロイド・ライトらの嘆願書により出所、その後はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構えた。
終戦後、ノグチは 1947年にジョージ・ネルソンの依頼で「ノグチ・テーブル」をデザイン・制作するなど、インテリア・デザインの作品を手掛ける。
1970年には大阪で行われた日本万国博覧会の依頼で噴水作品を設計。1972年にはコロンビア大学より名誉博士号を授与され、ニューヨーク州知事賞を受賞。1986年開催のヴェネツィア・ビエンナーレ(第42回)のアメリカ代表に選出され、同年日本の稲森財団より京都賞思想・芸術部門を受賞、1987年にはロナルド・レーガン大統領からアメリカ国民芸術勲章を受勲している。
環状の形に無限の空間表現を試みた「void(何もない・無)」
アメリカからミッド・センチュリーが北欧にも伝わり、北欧でもモダンデザイン家具が生まれた。特にデンマークでは名作が数多く生まれ。その名声は北欧内にとどまらず、1954年から57年にかけて『デザイン・イン・スカンジナビア展』が北米を巡回するなど、世界中におよんだ。北欧モダンデザインはヨーロッパのバウハウスの合理主義の影響なども受けつつも、シンプルで機能的な上、クラフト的な温かさを併せ持っている。北欧では自然と共に生きるという考えが根底にあり、環境への配慮がデザインの基本にある。
フィンランドが生んだ20世紀を代表する世界的な建築家、都市計画家、デザイナー。その活動は建築から家具、ガラス食器などの日用品のデザイン、絵画までと多岐にわたる。スウェーデンのグンナール・アスプルンドと並んで、北欧の近代建築家としてもっとも影響力があった1人であり、モダニズムに対する人間的なアプローチで知られる。ユーロ導入まで使用されていた50フィンランド・マルッカ紙幣に肖像が描かれていた。
地域性と国際性、モダンな建築と伝統的な様式、機能性と芸術性、自然と都市のバランスを大切にした設計・デザインを貫いた。
国際的な建築家として知られる出世作となったのは1928年に行なわれたコンペで一等を獲得したパイミオのサナトリウムであった。この作品は北欧でモダニズム建築が台頭するきっかけになった作品の一つである。
また、1935年に竣工したヴィープリの図書館に見られる波形にうねる曲線による木製の天井は、モダニズムの空間に相反するフィンランドの伝統的材料である木材を用いることで、アールト独自のモダニズムのあり方を押し進めるきっかけとなり、曲線と木材の使用はアールトの作風の一つともなった。(ちなみに「アールト」はフィンランド語で「波」を意味する)
1937年のパリ博覧会で入賞し、世界的に有名になったアールト・ベース(花瓶)も曲線を用いたオーガニックなフォルムとなっている。
うねる木製の天井はモダニズムと相反するフィンランドの伝統的木材を用い、アールト独自のモダニズムのあり方となった。
北欧でモダニズム建築が台頭するきっかけになった作品の一つ
パリ博覧会で入賞し、世界的に有名になったアールトの波形を生かしたフォルム
イギリスのお茶文化と日本の木工技術にインスピレーションを受けてデザインしたワゴン
パイオミのサナトリウムのために作成した椅子。アールトが独自に開発した「ラメラ曲木」という技術を用いて作られている。
マルセル・ブロイヤー が設計した鋼管製の椅子、ワシリーチェアに想を得て製作した。
大学名まで「アールト」になってしまった...
デンマークのデザインを世界中に広めた代表的人物。デンマークデザインの伝統を基礎としながら、ミース・ファン・デル・ローエなどのモダニストの影響を受ける。
1929年フレミング・ラッセンと共にコンペに向けてモダニズムの形式をとった「未来の家」を発表。モダニズムの旗手の一人としてデンマーク国内において一躍注目を集めた。これにより、その名が広まるところとなり、「ベラヴィスタ集合住宅」をはじめとする大規模リゾート計画やデンマーク第二の都市であるオーフスの市庁舎を手掛けるが、第2次世界大戦中はスゥエーデンへ亡命。帰国後、1946年に「スーホルム集合住宅」では非対称の屋根を採用するなど新しい概念を持ち込んだテラスハウスを発表。
1950年代初めからは後に世界的な評価を得ることになる家具デザインを始めた。1952年からのアントチェア、スワンチェアとともにラディソンホテルで設計されたエッグチェアなど、彼の家具デザインの多くがモダン様式の手本になっている。彼の最も知られた作品は 1955年のセブンチェアであり、500万本以上を販売している。製造は発表当時、フリッツ・ハンセン社が手がけていた。現在では、複数の企業が製造している。
建築における理想を追求したデザイン、家具までも含めた一貫性と言う点においてミース・ファン・デル・ローエに影響を受けたと自ら語っている。
デンマーク建築家協会が毎年開催している家具展示会『コペンハーゲン家具職人ギルド展』で「未来の家」というコンセプトでの設計コンペで優勝。
「未来の家」のコンペで2人が設計した作品は、ガラスとコンクリートのらせん状の平らな屋根の家で、自動開閉する車庫や自家用ボートを係留しておく水上ガレージに加え、屋上にヘリコプターの発着台を備えている。他にも、ほこり吸引機能付きの玄関マットや、郵便局まで自動で手紙を送るエアシューターも装備されており、まさに「未来の家」と呼ぶにふさわしい斬新なデザインであった。
各戸から海が眺められ日差しを取り込めるように設計されたモダニズム建築の先駆けともいえる作品。
「世界で一番売れたスタッキングチェア」や「セブンチェアを超える椅子は未だに存在しない」など、様々なキャッチコピーがつけられている。
「SASロイヤルホテル」のためにスワンチェアと一緒にデザインされたチェア。
アントチェアはチャールズ&レイ・イームズに影響を受けていたヤコブセンが手がけた最初の成形合板の製品。イームズ夫妻の椅子は背と座が分離していたが、そこを一体化した。試作の過程で背と座のつなぎにヒビや歪みが生じてしまった箇所を左右から取り除いていくうちに、くびれのあるアリのようなデザインになったことからアント(アリ)と名称がついた。
デンマーク国内初の高層ビルであるSASロイヤルホテル(現・ラディソンブルーロイヤルホテル)では建物の設計からインテリアデザイン、照明やドアノブ、食器類などの細部までを一貫して手がけた。スワンチェアのシートには成形合板では無く「硬質発泡ポリウレタン」が使用されていて、すべてが曲線で構成されたフォルムはまるで白鳥のよう。
デンマーク第二の都市であるオーフスの市庁舎。デザインがあまりにも現代的過ぎて、市民たちから反対の声により、市のランドマーク的存在となるような時計塔を追加したりと、いくつもの設計変更を余儀なくされ現在のデザインになった。
内装材にはデンマーク国内の木材を使用し、外部の自然を内部へ取り組む工夫がされた。庁舎内の会議室で使われている家具は、当時ヤコブセンの事務所に所属していた新進気鋭のデザイナー『ハンス・J.ウェグナー』がデザインを手掛けている。
デンマークの家具デザイナーである。生涯で500種類以上の椅子をデザインし、20世紀の北欧デザイン界に多大な影響を与えた。その椅子はニューヨーク近代美術館をはじめ多くでコレクションされている。
1940年~1943年にかけて、アルネ・ヤコブセンの事務所に勤務。アルネ・ヤコブセンが手掛けたオーフスの市庁舎内の会議室で使われている家具を担当した。自身のスタイルを模索するなか、中国・明の時代の「圏椅(チュェン・イ)」と呼ばれる曲線が特徴的な椅子を書物の中に見つけ、そこからインスピレーションを得て、最初に発表されたのが「チャイナチェア」であり、さらにリデザインを繰り返して1950年に発表されたのが、「Y チェア」である。
1960年、ケネディとニクソンが大統領選を戦っていた時、アメリカで初めてテレビ討論会が行われ、そこでイメージ戦略に成功。当時、ケネディはどのように対談をすれば、印象をスマートで品格よくできるかと考え、着目したのが「椅子」であった。世界から数十の椅子をかき集め、その中で「THE CHAIR」を選んだ。ここからウェグナーは世界から脚光を浴び、続々と名作チェアが生まれていった。
ウェグナーならではのフォルムや美しい接合部を創り出す基盤となっているのは、家具職人としての技術と知識。そして美的センスは、木材への深い造詣と、天然素材への探究心がベースとなっている。これが、ミニマリスティックでありながら温もりのある、オーガニックなフォルムを創り出している。
テレビ討論会でチャイナチェアに腰掛けるジョン・F・ケネディの様子
デンマーク・コペンハーゲン出身の建築家。シドニー・オペラハウスの画期的なデザインで、高く評価されている建築家。オーストラリア・シドニーに建設されるオペラ・ハウスの建築設計コンペに応募したが、彼が提出した設計案は図面ではなくアイデアを書き留めたドローイング程度に過ぎないものだったため、応募基準に合わないと落選していた。しかし、審査委員だった建築家エーロ・サーリネンが、コンクリート・シェル構造の自由な造形で建物を覆い支えるアイデアを気に入り、最終選考に復活させ強く支持し、採用された。
以後数年間、ウツソンはオペラ・ハウスの建設の指揮と設計の修正に取り組んだ。当初のデザインに大幅な変更を加えつつ、現在のような球面を組み合わせたような形に変え、不可能とされたコンクリート・シェルを実際に建てるための案を確立していった。
内装についても設計案を作っていたが、この部分は不本意な形で中止されてしまった。1965年の半ばの選挙で、建築主であるニューサウスウェールズ州政府の首相がロバート・アスキンに変わり、設計者の地位を辞任することになった。シドニーに移した事務所を引き払ってオーストラリアを去り、以後二度とシドニーの地を踏むことはなかった。デンマークに戻る途中、彼は地中海のマリョルカ島に立ち寄ってその風光に印象を受け、後に妻のリズの名を採った夏の別荘を建てている。
シドニー・オペラハウスは、その後を引き継いだ建築家チームの手で完成し、1973年に開館。以後世界的に著名な建築として親しまれている。2003年、ウツソンはオペラハウス設計の栄誉を称えられ、シドニー大学から名誉博士号を授与された。2000年には建築界の最大の栄誉であるプリツカー賞を受賞し、2007年、シドニー・オペラハウスは、ユネスコの世界遺産に登録された。
ドイツのデザイン学校。1955年正式に開校。バウハウスの精神を受け継ぎながら、徹底的な議論の中からデザインと科学、哲学、社会思想などとの接点を探求し,近代デザインの理論と実践の発展に大きく貢献した。初代学長はマックス・ビル。開校時の学部はプロダクト・デザイン・ビジュアル・コミュニケーション・建築・情報の四つで、後に映画制作も加わる。産学協同のデザイン・プロジェクトに取り組み、中でもブラウン社との仕事は有名。ハンス・ギュズロとディーター・ラムスの共作のラジオ付きレコードプレーヤー〈SK-55〉(1956 年)などを生み出し、同社の〈機能美〉に徹するという企業哲学の形成にまで深く関わった。他にも優れたデザインを多くの企業との間に生み出し、デザインを単なる造形や理論ではなく、科学やテクノロジーとの密接な関係をもって、生産過程の中で実践した。
そして、ドイツでは幾何学的なシンプルさとミニマリズムを追求する、新機能主義が支持された。
ドイツのインダストリアルデザイナーで、家電製品メーカーであるブラウン社と密接に関わるとともに、インダストリアルデザインにおける「機能主義」派の人物。電気機器メーカーであるブラウンに入社、1961年よりデザイン部門のディレクターとして約40年間に渡り、500を超える名作を世に送り出した。
コーヒーメーカー、計算機、ラジオ、オーディオ/ヴィジュアル機器、消費家電およびオフィス機器など、彼が手がけたデザインの多くは、ニューヨークのニューヨーク近代美術館など、世界中のさまざまな博物館の収蔵品となっている。
自らのデザインアプローチを「Less, but better(より少なく、しかしより良く)」と語っている。
iMacやiPod、iPhoneをデザインしたAppleのジョナサン・アイブも、彼を尊敬しており、iPhoneの計算機アプリケーションには、ラムスがデザインしたBraun ET66計算機からの影響が明らかであるとされている。
彼は今なおデザイン業界において伝説的存在とされており、最近では雑誌Wallpaper のデザインも手がけている。
革新的である / Good design is innovative.
実用をもたらす / Good design makes a product useful.
美的である / Good design is aesthetic.
理解をもたらす / Good design makes a product understandable.
謙虚である / Good design is unobtrusive.
誠実である / Good design is honest.
長命である / Good design has longevity.
最終的にディティールへと帰結する / Good design is consequent down to the last detail.
環境への配慮とともにある / Good design is environmentally friendly.
可能な限りデザインを抑制する / Good design is as little design as possible.
その美しさから「白雪姫の棺」と呼ばれた。