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#013

ポップアート

ポップアート

POP ART(ポップアート)は、現代美術の芸術運動のひとつで、大量生産・大量消費の社会をテーマとして表現。雑誌や広告、漫画、報道写真などを素材として扱う。1950年代半ばのイギリスでアメリカ大衆文化の影響の下に誕生したが、1960年代にアメリカ合衆国でロイ・リキテンスタインやアンディ・ウォーホルなどのスター作家が現れ世界的に影響を与えた。
第二次世界大戦後の先進国では、だれもが大量生産の製品に囲まれ、それらを消費し、テレビや雑誌でその広告にさらされる生活を送っている。ポップアートの運動の中には、これら下世話な製品やサブカルチャー、生活様式を批判する意図をこめたものもあれば、むしろ自分達を取り巻く大量生産・大量消費社会の風景を、山や海や農村にかわる新しい「風景」ととらえ、親しみ深い風景の一部である商品や広告を、淡々とあるいは美しく「風景画」として描こうとするものもあった。
またポップアートは、パリからニューヨークへ芸術の都を移すきっかけになり、歴史的な意味を 持つ芸術運動でもあった。

1950年代イギリス

最初にポップアートが盛んになったのはイギリスであった。戦後間もなく、米軍らと共に持ち込まれたアメリカ雑誌の切り抜きでコラージュを施したポップアートの始まりとなる作品が作られていた。
1952年からロンドンの「ICA」というギャラリーで、若い美術家やローレンス・アロウェイなどの評論家が集まり、「インディペンデント・グループ」というグループを組んで芸術と大衆文化のかかわりの研究を続けていた。「ポップアート」という言葉は、この研究のさなか、1956年に商業デザインなどを指して「ポピュラーなアート」という意味で生まれた。背景として第二次世界大戦後の疲弊したイギリスに豊かなアメリカから急速に浸透し、若者を夢中にさせた広告・SF・漫画・音楽などのアメリカ大衆文化に対する皮肉で客観的な目もあったが、むしろ現代を現す新しい素材を提供するものとして活用しようという動きもあった。
同年、リチャード・ハミルトンは雑誌や広告の魅力的な商品やゴージャスなモデル写真を切り貼りしたコラージュで、ポップアートの先駆的作品である「一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか」を発表した。ハミルトンは「ポップ」(大衆文化)を「通俗的、一過性、消耗品、安価、大量、若々しい、しゃれた、セクシー、見掛け倒し、魅力的、大企業」と定義した。

1950年代アメリカ

実際にポップアートが盛んになったのは、ポップの元となる大量生産・大量消費の商品や映画・漫画・音楽などの大衆文化の発信地、1960年代のアメリカである。戦後のイギリス人にとっては(戦後の日本人と同じく)アメリカの格好いい商品や大衆文化は眩しいものだったが、アメリカ人にとってはどこにでも売っているただの日用品で、むしろ格好悪い物であった。当初、それを美術の文脈にすることは、アメリカの芸術の前衛にあったモダニズムの立場や保守的な観衆から強い反発を受けた。
ニューヨークでは1950年代以来、ジャクソン・ポロックらに代表される抽象表現主義が全盛を極めており、人間より大きなキャンバスに抽象的な色面で全面を覆うオールオーバーな絵画が主流を占めていた。彼らの作品は、モダニズムを信奉する立場であり、「グッド・デザイン」を規範とし、ポップを「キッチュ」(ドイツ語の「低俗化」が語源)として退けていた。
これに対し、1950年代末にジャスパー・ジョーンズらが、廃品や既製品のがらくたなど、物体を絵に貼り付けたり、標的や数字や星条旗の図柄など、ありふれたイメージを描き始め、モダニズムの好む「グッド・デザイン」に反するような行動を始めた。
それゆえ彼らは、しばらくの間は「ネオダダ」とも呼ばれていたが、既製品や既成のイメージを使った彼らの作品は、抽象表現主義に取り組んでいたアーティストや抽象表現主義に飽き始めていた観客らに衝撃を与えた。
その後、ロイ・リキテンスタインと、アンディ・ウォーホルがコミックスの拡大模写や大量生産の日常品をモチーフにした版画の大量生産によって世に出た。1961年に渡米していたローレンス・アロウェイがアメリカに「ポップアート」という言葉を紹介し、これらの傾向の呼び名となった。ポップアートは映画や漫画などの大衆文化同様、観客の心を一瞬で掴む強い魅力的なイメージを持っているのでわかりやすく、アメリカの大量生産品や大衆文化をテーマにしているため、アメリカの豊かさを賛美する魅力的な芸術として歓迎されるようになった。逆にここからアメリカの大量生産品や大衆文化の悪趣味さや、商品を大量に消費し豊かになってもなお逃げられない死の影を見出す者もいた。

ローレンス・アロウェイ(1926 - 1990)

ローレンス・アロウェイは、英国出身の美術評論家、キュレーター、作家であり、1960年代のポップアート運動における重要な影響力を持つ人物として知られている。彼は一部の研究者からは、「ポップアート」という語を初めて導入した人物と考えられている。アートがエリートだけでなく、一般大衆にもアクセス可能であるべきだという強い信念を持っていた。その視点は、彼の時代の伝統的な美術観を挑発し、視覚文化全体に対するより広範で包括的な視点を提供した。

彼のキャリアはイギリスのインスティチュート・オブ・コンテンポラリー・アーツ(ICA)で始まった。その後、ニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館のキュレーターとして活動した。また、「American Art Since 1945」という重要な美術書も著した。

彼の業績と影響は美術界だけでなく、視覚文化、映画、テレビ、大衆文化に対する我々の理解においても非常に重要な役割を果たしてきたと言える。

引用:Wikipedia

ジャスパー・ジョーンズ(1930~)

ロバート・ラウシェンバーグとともにアメリカにおけるネオダダやポップアートの先駆者として重要な役割を果たした代表的な作家。ダーツの標的、アメリカ50州の地図、数字や文字などを「描いた」作品が知られる。マルセル・デュシャンが既製品の小便器を作品とした応用で「既にみんなが知っていること・もの」を作品として描こうとした。
ラウシェンバーグの作品がしばしば二次元の枠をはみ出ているのに対し、ジョーンズは標的や地図のようなもともと二次元的な事物を平面に描くことにこだわった。三次元の事物を二次元の平面に再現する「イリュージョン」としての絵画はここでは否定され、絵画自体が「もの」であることが強調され、平面的な「オブジェ」と化しているのである。手法として古代の着色した蜜蝋を溶融し、表面に焼き付ける絵画技法「エンカウスティーク」(蝋画ともいう)というユニークな技法が用いられ、その作品に独特のメチエを与えている。
また、ジョーンズはビールの缶をブロンズで本物そっくりに鋳造し彩色した「彫刻」も手掛けている。

引用:THE Hollywood REPORTER

ロバート・ラウシェンバーグ(1925 - 2008)

アメリカの画家であり彫刻家である。彼はポップアートという芸術運動の先駆けとなった。また、彼はコンバイン・ペインティングやアセンブラージュという独特な芸術技法を開発した。
彼の作品は絵画と彫刻の間を行き来する特徴があり、しばしば「非伝統的」な材料を使用する。最も知られているのは「コンバイン・ペインティング」と呼ばれる作風で、これらは異なる物体や素材を組み合わせて作られている。これらの作品は絵画、彫刻、絵画的コラージュを一つに組み合わせたもので、2次元と3次元の領域の間を移動する。
ラウシェンバーグは社会的なテーマや問題を取り上げ、芸術を通じてそれらについての対話を促すことでも知られている。彼の作品は現代美術の重要な一部と見なされており、世界中の美術館やギャラリーで展示されている。

引用:Wikipedia

アンディ・ウォーホル(1928~1987)

「アメリカにおけるポップアートの旗手」と言われている幅広い分野で活躍したアーティスト。銀髪のカツラがトレードマークで、 ロックバンドのプロデュースや映画監督を務めるなどマルチな活動で知られている。大学卒業後は『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』など雑誌の広告やイラストで商業デザイナー・イラストレーターとして成功するが、仕事と対人関係にストレスを抱える苦悩の時期でもあった。
1960年(32歳)のときに、広告業界からファインアートの世界へと転向。コミックをモチーフに作品を制作するが、同様にアメリカン・コミックをモチーフに一世を風靡したロイ・リキテンスタインの作品にふれ、この主題からは手を引いた。
1961年(33歳)、毎日食べていたキャンベル・スープの缶や身近にあったドル紙幣をモチーフにした作品を描く。ポップアートの誕生である。1962年(34歳)、シルクスクリーンプリントを用いて作品を量産するようになる。モチーフにも大衆的で話題に富んだものを選んでいた。マリリン・モンローの突然の死にあたって、彼はすぐさま映画『ナイアガラ』のスチル写真からモンローの胸から上の肖像を切り出し、「マリリンのディスパッチ」等、以後これを色違いにして大量生産しつづけた。
派手な色彩で同じ図版を大量に生産できるシルクスクリーンの技法を用い、スターのイメージや商品、ドル記号など、アメリカ社会に流布する軽薄なシンボルを作品化した。古典芸術やモダニズムなどとは異なり、その絵柄は豊かなアメリカ社会を体現する明快なポップアート、商業絵画としても人気を博した。しかし、そこにはアメリカの資本主義や大衆文化のもつ大量消費、非人間性、陳腐さ、空虚さが表現されていると見ることもできる。普遍性を求めた彼の作品は、彼自身や大衆が日々接している資本主義やマス・メディアとも関連しており、またジェット機事故、自動車事故、災害、惨事などの新聞を騒がせる報道写真をモチーフにしたイメージも描かれた。

引用:Wikipedia

ロイ・リキテンスタイン(1923~1997)

アメリカのポップ・アーティスト。1960年代にアンディー・ウォーホルやジャスパー・ジョーンズ、ジェームス・ローゼンクイストらとともに新しいアートムーブメントを引率した代表的な人物。
パロディを通じて皮肉性を含んだポップ・アートが基本的な作品姿勢で、彼のインスピレーションの源泉となっているのは主に新聞に描かれる大衆漫画(コミック・ストリップ)である。自分の子供にミッキーマウスの漫画を描いてやった時に、従来のいわゆる芸術としての絵画よりも漫画の方が強烈なインパクトと表現力を持っていることに気が付いたのがきっかけであった。
リキテンスタインの作品の大半は、三原色(赤、青、黄)に黒を加えた4色である。色使いはモダニズムの抽象画家であるピエト・モンドリアンにも共通しており、漫画の平面性を強調した画面は同様に平面性を強調した抽象表現主義から連続しているところもあった。作品に描かれている水玉ドットは手作業でペイントしておらず、ステンシルを使って描いている。
作品のほとんどはオリジナルではなく、既存の漫画作品の小さなコマを、キャンバス大に拡大して、独自の色の処理を行っている。その意味合いにおいてオリジナルから変更されているので、コピー作品とは異なると本人や評論家たちは主張している。後に漫画のみならず、古今の名画を同様の平面的な手法で描くシリーズや、絵具をぶ厚く塗った筆跡(ブラッシュストローク)のような平面性とは対極にあるものを漫画のように平面的に描くシリーズなども展開している。
また、リキテンスタインはポップ・アートを「「アメリカ」の絵画ではなく、実際には「工業用」の絵画」と表現した。
リキテンスタインの作品は、漫画のコマを拡大したもので、アートとしての価値があるかどうか広く議論されている。「ハイ・アートとロー・アートがあるが、彼はロー・アートをハイ・アートの文脈に組み込み、オリジナルとは異なるものへと昇華させたハイ・アートである」と肯定されることもあれば、オリジナルのアーティストや著作権者のクレジットを表示せず、ロイヤリティも支払わず、許可も得ていないと批判されることもある。

引用:A Girl in Hong Kong

キース・ヘリング(1958~1990)

ストリートアートの先駆者とも呼べる画家で、1980年代アメリカの代表的芸術家として知られる。シンプルな線と色とで構成された彼の絵は日本でも人気があり、キースの作品をプリントした Tシャツがユニクロやスポルディング等から販売されることもあって広く知られている。
1980年にニューヨークの地下鉄構内で使用されていない広告掲示板に黒い紙を張り、その上にチョークで絵を描くというサブウェイ・ドローイングと呼ばれる活動を始めた。そのシンプルな線でリズミカルに書かれた絵はニューヨークの通勤客の間で評判となり、キースの名が知られるようになった。グレイトフル・デッドのファンであるデッドヘッズであった。
彼は「エイズ予防啓発」「LGBTの認知」「核放棄」「反アパルトヘイト」など社会的・政治的な問題をテーマとした作品を制作。チョーク・アウトライン形式(犯罪現場で被害者の位置を書き記すための白い線)と呼ばれる方法で、シンプルで大胆な色使いの作風が特徴。
ヘリングが特に描いたモチーフとして、「Radiant Baby(光輝く赤ん坊)」「円盤」「犬を象徴するもの」などがある。「Radiant Baby(ラディアント・ベイビー・光輝く赤ん坊)」はキリスト教に由来しており、エイズや同性愛者などが社会に抗議するメッセージも込められている。シンプルなチョークアウトラインで力強い生命力を放った作品。
一見、ポップで華やかさが目立つ作風だが、そこにはヘリング自身が同性愛者でありエイズ感染者として、現代社会に対する差別や暴力に警鐘を鳴らす彼の思いが込められてる。
ヘリングは美術家としての名声を確立すると、美術界だけでなく、音楽界でも欠かせない存在となっていた。マドンナやRUN DMC、デイビッド・ボウイ、シルヴェスター・ジェームスなどのアルバム・ジャケットや、マドンナの衣装デザインを手掛けており、アートと音楽の架け橋を担う重要な役割も果たしていた。
そして世界中の都市で約50点以上のパブリックアートを制作。ポスター・アートや核放棄、エイズ予防、LGBTの認知などの社会問題にも取り組みながら精力的に制作を続けた。

引用:Wikipedia

1970年以降のポストモダンデザイン

1970年~80年代に、最も勢いのあった国際的デザイン運動。合理的で機能主義的となった近代モダニズムに対し、その反動として現れた装飾性、折衷性、過剰性などの回復を目指した。
チャールズ・ジェンクスの著作「ポスト・モダニズムの建築言語」(1977)において定義された。
ジェンクスに刺激されたクリエイターとコマーシャリズムが結びつき、モダニズムという概念や枠組みの解体よりは、その揶揄・パロディ表現がもてはやされた。ゆえに、過剰で豊穣なモノが多々生み出され、決別したはずのスタイルを引用し、その滑稽な折衷も良しとしたり、一品制作的な凝った手仕事と素材へのこだわりと、チープ・シックなハンディクラフト感がともに復活し、装飾が再び賞賛された。
1966年ロバート・ヴェンチューリは、著書「建築の多様性と対立性」において、禁欲的に装飾を否定したモダニズム建築を批判。ミースの標語"LESS IS MORE"(少ないほど、豊かである)を"LESS IS BORE"(少ないほど、退屈である)と皮肉った。近代建築の限界を指摘し、非近代的な、外皮の表象だけで成立している建築の方が、よりアクチュアリティーを持ち、都市の日常性をかたちづくるとも語った。

ポストモダンデザイン

ARCHIGRAMアーキグラム(1961~1974)

1961年、ピーター・クック、デニス・クロンプトン、デヴィッド・グリーン、ウォーレン・チョーク、ロン・ヘロン、マイケル・ウェブを基本メンバーとしてイギリスで結成し、70年代初頭まで活躍した前衛的建築家グループ。
詩と建築、デザインなどの分野を自在に横断し、消費社会における新しい建築や都市の姿を、当時のSFコミックスや広告などのイメージを引用しながら、ポップなグラフィックやコラージュで表現した。これらの表現がポップ・カルチャーが認められ始めた60年代の潮流に乗り人びとの共感を得たのである。
脚付きの巨大な都市が、居住者が希望する場所へと移動する「ウォーキング・シティ」や、着脱可能な空間ユニットを集合住居やオフィス、店舗など多様な用途にあわせて組み立てた「プラグイン・シティ」や、着脱可能な空間ユニットを集合住居やオフィス、店舗など多様な用途にあわせて組み立てた「プラグイン・シティ」など、奇抜なアイデアを同人誌『アーキグラム』誌上で発表。彼らは実際に建築もつくらなければ、宣言をしたわけでもないが、「建築を情報に還元する」(磯崎新)ことに成功し、建築ドローイングを「建築作品」とすることで、建築を完全に情報化。消費される消耗品となるように目論み、建築を優れたコミュニケーションメディアとした。
「建築界のビートルズ」とも呼ばれる前衛的でユーモアにあふれた姿勢は建築家のレム・コールハウスやザハ・ハディドなどの建築家だけでなく、ポール・スミスなどのデザイナーにも影響を与えた。また、2002年にはその活動が認められ、建築界でもっとも栄誉ある賞とされる「英国王立建築家協会(RIBA)」のゴールドメダルを受賞した。

ハイテック建築

産業革命後、「鉄」という新しい建築材料の出現により発展した近代建築。近代建築では鉄とガラス、コンクリートという新しい素材を駆使することにより、それ以前の建築とは全く異なるスタイルが確立された。しかし結果的にモダニズムは都市をモノトーンで、単なる四角い箱のような画一的なビルで埋め、経済性を追求するあまり、その仕上げの質は低く、目新しさを失っていった。そして建築界での主役の座をポスト・モダン、すなわち古典懐古主義に明け渡してしまう。
しかし、一過性の懐古趣味であったポスト・モダンは長くは続かず、各国の建築家たちはこぞって次の様式を模索し始めた。そんな混沌とした時代にあって、ガラスや鉄を巧みにデザインした、シャープで機械的な建築が出現する。これが「ハイテク建築」である。
ハイテク建築の特徴は多岐にわたるが、科学技術的な要素の強調という点が大きい。建築物の技術的、機能的な要素を目立つ形で見せること、ボルト・ナットや配管を剥き出しにし、科学技術的な外観が、意匠として建築の美を創り出している。

イタリアのラディカルデザイン(反デザイン)

モダニズム文化のデザインの中で、簡素で単一なデザイン、文化的な要素を排除したデザインに対してイタリアの学生を中心に不満が広がっていた。60年代の世界的な学生運動の中でラディカーレという運動が起きた。1963年、フィレンチェ大学建築学部から、旧式な様式で教えていた教育に対する抗議闘争にはじまり、ミラノ、ローマ、トリノへと進展、イタリア全土に広がった。
その渦中で1960年代中頃に「スーパースタジオ」や「アーキズーム」を設立したイタリアの若手建築家達はアーキグラムなどの行動に強い影響を受けつつ、モダニズムが否定した情緒、皮肉、キッチュといった価値感のデザインを積極的に用い、自らの内に沸き上がるフィーリングにフォーカスした。
「スーパースタジオ」は未来に対してネガティブで理論的な姿勢を持っており、「アーキズーム」は未来に対してポジティブで反語的・逆説的でコミカルな姿勢を持っていた。1969年にはフィレンツェの国際古美術ビエンナーレにおいて、「スーパースタジオ」と「アーキズーム」はともに「骨董決定版」展と題する共同のグループ展を行っている。
また、ポップアートカルチャーの影響やラディカル建築・デザインの指導的・象徴的立ち位置としてエットレ・ソットサスの存在があった。
その後、政治とメーカーの癒着への反発でミラノ・サローネでゴミが展示されるなど、生産に対する反抗運動などが起きたり、1972年には、MoMAでイタリアの新デザインを紹介する「ニュードメスティック・ランドスケープ」展が開催され、コンセプチュアルなデザイン、社会や自然環境とデザインの共存がテーマとなったりした。

スーパースタジオ

イタリアの建築家集団。1966年アドルフォ・ナタリーニとクリスチアーノ・トラルド・ディ・フランチアにより設立された。フィレンツェ大学の建築学科を卒業した建築家達が中心になり、建築の人類学的な再構築の試みを一貫して行っていった。
既建築・都市から、ソファやランプなどのポップなデザインまで、幅広い領域の活動を行う。実作はほとんどなく、当時の技術では実現できないような建築デザインをドローイングして有名になった。
エットレ・ソットサスの後ろ盾を得て、ラディカルな反デザインを展開し、1960年代後半のラディカル時代の雰囲気を反映している。デザインに付与される意味を徹底して壊す、という彼らのラディカル・デザインへの意志は、均質で中性化された単位を繰り返し、建築全体に浸透させる「シングル・デザイン」という手法にも貫かれている。

引用:Interplay☆☆☆86GT LIFE「「スーパースタジオ」を振り返る」
引用:note「テクノロジーと未来都市」
引用:コトバンク「スーパースタジオ」
引用:10W「株式会社 SUPER STUDIO」
引用:yamagiwa online「zanotta(ザノッタ)「Quaderna」【受注品】」

アーキズーム

イタリアの建築家、デザイナーのグループ。フィレンツェをベースに展覧会や出版による活動、家具や照明などのデザイン、そしてラディカルで未来主義的な都市の提案を行った。同じく建築運動を行っていた「スーパースタジオ」と共同開催した展覧会「スーパーアーキテクチャー」(ピストイア、1966。モデナ、1967)でラディカルなデザインや計画を出展し、国際的な注目を浴びた。
1966年に、アンドレア・ブランジ、ギルベルト・コレッティ、パオロ・デガネッロ、マッシモ・モロッツィによって結成された。
同世代のロンドンの建築家グループ「アーキグラム」が提案した「インスタント・シティ」の技術指向による未来都市提案に対して、「アーキズーム」は均一的な空間にキッチュな、消費社会を象徴するプロダクトやポップ・アートを配し、未来都市のイメージを消費社会の延長として表現した。アーキズームによるプロダクト・デザインは合理的なイタリアン・モダンをベースに、ポップなかたちでウィットにあふれており、後のポスト・モダニズムのコンセプトにつながっていったものもある。

引用:コトバンク「アーキズーム」
引用:山内陸平20世紀のデザインあれこれ「1966年モダンデザインの転換点」
動画:「ARCHIZOOM for SansSouci Magazine Vol. 2」