POP
ART(ポップアート)は、現代美術の芸術運動のひとつで、大量生産・大量消費の社会をテーマとして表現。雑誌や広告、漫画、報道写真などを素材として扱う。1950年代半ばのイギリスでアメリカ大衆文化の影響の下に誕生したが、1960年代にアメリカ合衆国でロイ・リキテンスタインやアンディ・ウォーホルなどのスター作家が現れ世界的に影響を与えた。
第二次世界大戦後の先進国では、だれもが大量生産の製品に囲まれ、それらを消費し、テレビや雑誌でその広告にさらされる生活を送っている。ポップアートの運動の中には、これら下世話な製品やサブカルチャー、生活様式を批判する意図をこめたものもあれば、むしろ自分達を取り巻く大量生産・大量消費社会の風景を、山や海や農村にかわる新しい「風景」ととらえ、親しみ深い風景の一部である商品や広告を、淡々とあるいは美しく「風景画」として描こうとするものもあった。
またポップアートは、パリからニューヨークへ芸術の都を移すきっかけになり、歴史的な意味を 持つ芸術運動でもあった。
最初にポップアートが盛んになったのはイギリスであった。戦後間もなく、米軍らと共に持ち込まれたアメリカ雑誌の切り抜きでコラージュを施したポップアートの始まりとなる作品が作られていた。
1952年からロンドンの「ICA」というギャラリーで、若い美術家やローレンス・アロウェイなどの評論家が集まり、「インディペンデント・グループ」というグループを組んで芸術と大衆文化のかかわりの研究を続けていた。「ポップアート」という言葉は、この研究のさなか、1956年に商業デザインなどを指して「ポピュラーなアート」という意味で生まれた。背景として第二次世界大戦後の疲弊したイギリスに豊かなアメリカから急速に浸透し、若者を夢中にさせた広告・SF・漫画・音楽などのアメリカ大衆文化に対する皮肉で客観的な目もあったが、むしろ現代を現す新しい素材を提供するものとして活用しようという動きもあった。
同年、リチャード・ハミルトンは雑誌や広告の魅力的な商品やゴージャスなモデル写真を切り貼りしたコラージュで、ポップアートの先駆的作品である「一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか」を発表した。ハミルトンは「ポップ」(大衆文化)を「通俗的、一過性、消耗品、安価、大量、若々しい、しゃれた、セクシー、見掛け倒し、魅力的、大企業」と定義した。
雑誌や広告の魅力的な商品やゴージャスなモデル写真を切り貼りしたコラージュ。男性モデルが手にしている「POP」の文字が印象的である。
実際にポップアートが盛んになったのは、ポップの元となる大量生産・大量消費の商品や映画・漫画・音楽などの大衆文化の発信地、1960年代のアメリカである。戦後のイギリス人にとっては(戦後の日本人と同じく)アメリカの格好いい商品や大衆文化は眩しいものだったが、アメリカ人にとってはどこにでも売っているただの日用品で、むしろ格好悪い物であった。当初、それを美術の文脈にすることは、アメリカの芸術の前衛にあったモダニズムの立場や保守的な観衆から強い反発を受けた。
ニューヨークでは1950年代以来、ジャクソン・ポロックらに代表される抽象表現主義が全盛を極めており、人間より大きなキャンバスに抽象的な色面で全面を覆うオールオーバーな絵画が主流を占めていた。彼らの作品は、モダニズムを信奉する立場であり、「グッド・デザイン」を規範とし、ポップを「キッチュ」(ドイツ語の「低俗化」が語源)として退けていた。
これに対し、1950年代末にジャスパー・ジョーンズらが、廃品や既製品のがらくたなど、物体を絵に貼り付けたり、標的や数字や星条旗の図柄など、ありふれたイメージを描き始め、モダニズムの好む「グッド・デザイン」に反するような行動を始めた。
それゆえ彼らは、しばらくの間は「ネオダダ」とも呼ばれていたが、既製品や既成のイメージを使った彼らの作品は、抽象表現主義に取り組んでいたアーティストや抽象表現主義に飽き始めていた観客らに衝撃を与えた。
その後、ロイ・リキテンスタインと、アンディ・ウォーホルがコミックスの拡大模写や大量生産の日常品をモチーフにした版画の大量生産によって世に出た。1961年に渡米していたローレンス・アロウェイがアメリカに「ポップアート」という言葉を紹介し、これらの傾向の呼び名となった。ポップアートは映画や漫画などの大衆文化同様、観客の心を一瞬で掴む強い魅力的なイメージを持っているのでわかりやすく、アメリカの大量生産品や大衆文化をテーマにしているため、アメリカの豊かさを賛美する魅力的な芸術として歓迎されるようになった。逆にここからアメリカの大量生産品や大衆文化の悪趣味さや、商品を大量に消費し豊かになってもなお逃げられない死の影を見出す者もいた。
「アクション・ペインティング」により描かれた代表作。「アクション・ペインティング」は、抽象的表現と形態の融合より創出された独自の技法。「ポーリング」(塗料を注ぎ掛けながら線を描く技法)、「ドリッピング」(塗料を撒き散らして滴らせる技法)、「スプラッタリング」(塗料を粒状に飛び散らす技法)により、作品を描いた。
ローレンス・アロウェイは、英国出身の美術評論家、キュレーター、作家であり、1960年代のポップアート運動における重要な影響力を持つ人物として知られている。彼は一部の研究者からは、「ポップアート」という語を初めて導入した人物と考えられている。アートがエリートだけでなく、一般大衆にもアクセス可能であるべきだという強い信念を持っていた。その視点は、彼の時代の伝統的な美術観を挑発し、視覚文化全体に対するより広範で包括的な視点を提供した。
彼のキャリアはイギリスのインスティチュート・オブ・コンテンポラリー・アーツ(ICA)で始まった。その後、ニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館のキュレーターとして活動した。また、「American
Art Since 1945」という重要な美術書も著した。
彼の業績と影響は美術界だけでなく、視覚文化、映画、テレビ、大衆文化に対する我々の理解においても非常に重要な役割を果たしてきたと言える。
ロバート・ラウシェンバーグとともにアメリカにおけるネオダダやポップアートの先駆者として重要な役割を果たした代表的な作家。ダーツの標的、アメリカ50州の地図、数字や文字などを「描いた」作品が知られる。マルセル・デュシャンが既製品の小便器を作品とした応用で「既にみんなが知っていること・もの」を作品として描こうとした。
ラウシェンバーグの作品がしばしば二次元の枠をはみ出ているのに対し、ジョーンズは標的や地図のようなもともと二次元的な事物を平面に描くことにこだわった。三次元の事物を二次元の平面に再現する「イリュージョン」としての絵画はここでは否定され、絵画自体が「もの」であることが強調され、平面的な「オブジェ」と化しているのである。手法として古代の着色した蜜蝋を溶融し、表面に焼き付ける絵画技法「エンカウスティーク」(蝋画ともいう)というユニークな技法が用いられ、その作品に独特のメチエを与えている。
また、ジョーンズはビールの缶をブロンズで本物そっくりに鋳造し彩色した「彫刻」も手掛けている。
マルセル・デュシャンの影響が大きく出ている作品。缶の上にシンプルなデザインの楕円形ラベルの付いた「バレンタインエール」というブランドのビール缶をブロンズ彫刻で再現。ラベル部分には絵のような筆づかいの跡が見えるように色を塗っている。ビールの缶は、日常で接する最も些細なものに属し、中身が空になるとすぐに捨てられる。しかし、作品になることで、顔立ちやラベルのデザインに初めて着目し、ビール缶が象徴するわずかな日常と些細な物事の価値を考え直すことになる。
1954年のある日、自分が星条旗の絵を描いている夢を見たという。さっそく星条旗をキャンバス全体に描いた「旗」を制作。1958年のニューヨークのレオ・カステリ画廊の初個展で発表された。
蜜蝋をメディウムとして使う「エンカウスティーク」を駆使し、絵の具を塗った筆跡を残している。エンカウスティークは、ジョーンズのトレード・マークとも言える手法となった。星条旗の縞模様の下には、蜜蝋で塗り固められた新聞紙がコラージュされている。
1つの星条旗のイメージを切り分け、3つのキャンバスに描き、支持体であるキャンバスを物質的に繋ぎ合わせることで、1つのイメージになるように再構成している。
単色であることで、より蜜蝋の凹凸やコラージュの重層的なテクスチャーが増幅され、なおかつ白以外の色彩も感じられる作品となっている。
キャンバスに的(ターゲット)を描き、型取りした頭部のオブジェを組み合わせて構成している。キャンバスの奥行きに合ったサイズのオブジェを配置し、二次元的な絵画に空間性を持たせている。
旗やターゲットよりもミニマルで抽象的な既存のイメージとして用いたのが数字のモチーフとなる。ジョーンズは数としての意味は無視し、文字の形に着目した。
このときに、蜜蝋を使ったエンカウスティークの手法が生かされたのが、ステンシルである。型を使うことで、反復する作業を正確なものにし、かつ蜜蝋の厚みを使い、形を浮き上がらせることもできる。
《白色の数字》では、ステンシルを使うことで、キャンバスの下地が透けて見えるように処理されている。整列している各数字が主張することなく、絵画の全体性を感じられる作品である。
旗やターゲットよりも少し後に、取り入れたのがアメリカの地図である。モチーフとして使うようになったのは、ロバート・ラウシェンバーグからアメリカの地図を贈られたことがきっかけだった。ジョーンズは渡された地図に色を載せていき、作品を制作している。
地図シリーズでは、キャンバスを立てることで流れ落ちた絵の具の軌跡が残されていることが多い。これは、偶然性の音楽を生み出したジョン・ケージの影響だと言われている。
アメリカの画家であり彫刻家である。彼はポップアートという芸術運動の先駆けとなった。また、彼はコンバイン・ペインティングやアセンブラージュという独特な芸術技法を開発した。
彼の作品は絵画と彫刻の間を行き来する特徴があり、しばしば「非伝統的」な材料を使用する。最も知られているのは「コンバイン・ペインティング」と呼ばれる作風で、これらは異なる物体や素材を組み合わせて作られている。これらの作品は絵画、彫刻、絵画的コラージュを一つに組み合わせたもので、2次元と3次元の領域の間を移動する。
ラウシェンバーグは社会的なテーマや問題を取り上げ、芸術を通じてそれらについての対話を促すことでも知られている。彼の作品は現代美術の重要な一部と見なされており、世界中の美術館やギャラリーで展示されている。
1955年から1959年にかけて作られた。これは絵画、彫刻、そして既存のオブジェを組み合わせた作品で、規範にとらわれないラウシェンバーグの芸術スタイルを象徴している。
この作品の最も目立つ要素は、作品の中心に立てられたヤギである。このヤギにはリアルなゴムタイヤが巻かれ、その胴体の上に絵画が展開されている。その周囲にはさまざまなオブジェや材料が配置されている。
「Monogram」はラウシェンバーグが芸術の可能性を拡張した証である。彼は絵画と彫刻という伝統的なカテゴリを超え、物体、絵画、彫刻を組み合わせた独自の芸術表現を確立した。そのため、「Monogram」はラウシェンバーグの創造性と革新性を象徴する作品として広く認識されている。
1964年に制作された大きな絵画で、彼のポップアート作品の一つである。この作品は、1960年代のアメリカの社会政治状況、特にベトナム戦争と民主主義との葛藤を反映している。
「Buffalo II」は色とりどりのスクリーンプリントと絵画を組み合わせた作品であり、ニュース写真や広告などのイメージを採用している。作品の中心部にはアメリカ大統領ジョン・F・ケネディが登場し、ミサイルや軍艦、飛行機のイメージが混ざり合っている。これらの要素は、当時のアメリカの社会政治状況を象徴している。
ラウシェンバーグは「Buffalo II」によって、個々の物語や歴史的な出来事を組み合わせ、視覚的な対話を創出している。この作品は、美術館やオークションで非常に高い評価を受けている。
「アメリカにおけるポップアートの旗手」と言われている幅広い分野で活躍したアーティスト。銀髪のカツラがトレードマークで、
ロックバンドのプロデュースや映画監督を務めるなどマルチな活動で知られている。大学卒業後は『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』など雑誌の広告やイラストで商業デザイナー・イラストレーターとして成功するが、仕事と対人関係にストレスを抱える苦悩の時期でもあった。
1960年(32歳)のときに、広告業界からファインアートの世界へと転向。コミックをモチーフに作品を制作するが、同様にアメリカン・コミックをモチーフに一世を風靡したロイ・リキテンスタインの作品にふれ、この主題からは手を引いた。
1961年(33歳)、毎日食べていたキャンベル・スープの缶や身近にあったドル紙幣をモチーフにした作品を描く。ポップアートの誕生である。1962年(34歳)、シルクスクリーンプリントを用いて作品を量産するようになる。モチーフにも大衆的で話題に富んだものを選んでいた。マリリン・モンローの突然の死にあたって、彼はすぐさま映画『ナイアガラ』のスチル写真からモンローの胸から上の肖像を切り出し、「マリリンのディスパッチ」等、以後これを色違いにして大量生産しつづけた。
派手な色彩で同じ図版を大量に生産できるシルクスクリーンの技法を用い、スターのイメージや商品、ドル記号など、アメリカ社会に流布する軽薄なシンボルを作品化した。古典芸術やモダニズムなどとは異なり、その絵柄は豊かなアメリカ社会を体現する明快なポップアート、商業絵画としても人気を博した。しかし、そこにはアメリカの資本主義や大衆文化のもつ大量消費、非人間性、陳腐さ、空虚さが表現されていると見ることもできる。普遍性を求めた彼の作品は、彼自身や大衆が日々接している資本主義やマス・メディアとも関連しており、またジェット機事故、自動車事故、災害、惨事などの新聞を騒がせる報道写真をモチーフにしたイメージも描かれた。
1962年7月9日、アンディウォーホルは32点のキャンベルスープ缶を描いたキャンバスを展示した初の個展を開催。
この個展が、ウォーホルのポップ・アーティストとしてのデビューだとされている。会場にはそれぞれ高さ20cm、幅16cmの32枚のキャンベルスープ缶のキャンバスが同じように反復して展示されており、どこか商業的で機械的なイメージが漂ってくる。被写体は、キャンベル・スープ・カンパニーが販売していた32種類のスープ缶。
芸術の持つ深みや、アーティストの内面性を深く掘り下げたような内省的な作風とは正反対の、表面的で大衆的な作風は、ポップカルチャーそのものであると言える。「すべてを知りたければ表面だけを見ればいい。」と語っており、自身の作品には深い意味はなく見るものがすべてだと、容姿ともに自己をプロデュースすることに徹底しており、ポップアートとしての概念が確率される以前の深い精神性を秘めた抽象表現主義作品の背景への反発が現れている。
1962年8月にアメリカの人気女優マリリン・モンローが死去した直後に作られたもので、ウォーホルの死に対する意識が大きく反映された作品。
彼はアメリカで人気女優として認知されていた、マリリンモンローをセクシーな女性像として作品に投影した。マリリン・モンローが明るく着色されたりモノクロで表現されたりと、アメリカ映画界のセックスシンボルでもあったひとりの女優の人生をさまざまな角度から多重的に見せており、肥大化したイメージが大衆の中で一人歩きすることが、作品の中で表現されている。
ポップアートと「記号」は密接な関係にあり、この点にポップアートが誕生した意義が伺える。
初期作品で、物議を醸した作品群の1つに「死と惨禍」シリーズ(1962-1963)がある。
1962年の夏に起こった飛行機事故をきっかけに、彼は死に対する恐怖や怒りをこの一連の作品群に込めた。「死」は彼の制作した作品の中でも重要なテーマといえる。
また、ウォーホルは作品の中で、同じイメージを反復して使っており、その理由について、ぞっとする映像も何度も見ているうちに、感覚が麻痺してきて何も感じなくなってしまうからだと語っている。画像を粗くしたり、ポップな色をつけたものを繰り返し使うことで、事件の現実味は二重の意味で薄れただけでなく、死はある種のイメージに変えられ、ソファの上に飾られる、芸術というイメージへと変化した。
60年代後半に、当時無名であったアメリカのロックバンド「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」をプロデュース。
1967年のデビューアルバム『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』のカバージャケットを考案。ジャケットにはバナナの絵には、「Peel Slowly and
See(ゆっくりはがして、見ろ)」との添え書きがあり、バナナの絵にはステッカーを剥がすと果肉が現れる仕組みがあり、彼の遊び心が見られる。
アメリカのポップ・アーティスト。1960年代にアンディー・ウォーホルやジャスパー・ジョーンズ、ジェームス・ローゼンクイストらとともに新しいアートムーブメントを引率した代表的な人物。
パロディを通じて皮肉性を含んだポップ・アートが基本的な作品姿勢で、彼のインスピレーションの源泉となっているのは主に新聞に描かれる大衆漫画(コミック・ストリップ)である。自分の子供にミッキーマウスの漫画を描いてやった時に、従来のいわゆる芸術としての絵画よりも漫画の方が強烈なインパクトと表現力を持っていることに気が付いたのがきっかけであった。
リキテンスタインの作品の大半は、三原色(赤、青、黄)に黒を加えた4色である。色使いはモダニズムの抽象画家であるピエト・モンドリアンにも共通しており、漫画の平面性を強調した画面は同様に平面性を強調した抽象表現主義から連続しているところもあった。作品に描かれている水玉ドットは手作業でペイントしておらず、ステンシルを使って描いている。
作品のほとんどはオリジナルではなく、既存の漫画作品の小さなコマを、キャンバス大に拡大して、独自の色の処理を行っている。その意味合いにおいてオリジナルから変更されているので、コピー作品とは異なると本人や評論家たちは主張している。後に漫画のみならず、古今の名画を同様の平面的な手法で描くシリーズや、絵具をぶ厚く塗った筆跡(ブラッシュストローク)のような平面性とは対極にあるものを漫画のように平面的に描くシリーズなども展開している。
また、リキテンスタインはポップ・アートを「「アメリカ」の絵画ではなく、実際には「工業用」の絵画」と表現した。
リキテンスタインの作品は、漫画のコマを拡大したもので、アートとしての価値があるかどうか広く議論されている。「ハイ・アートとロー・アートがあるが、彼はロー・アートをハイ・アートの文脈に組み込み、オリジナルとは異なるものへと昇華させたハイ・アートである」と肯定されることもあれば、オリジナルのアーティストや著作権者のクレジットを表示せず、ロイヤリティも支払わず、許可も得ていないと批判されることもある。
1963年から65年にかけて、アメリカの漫画やテレビドラマの典型的なヒロイン像の顔をテーマにして一連の作品を制作していた。「ヘアリボンの少女」はそのシリーズの代表作。
当時の一般大衆に期待されていた女性を演じ、虚構のロマンスの中で涙を流したり驚いたりしている。大画面に拡大されたその表情は、漫画やドラマの通俗的なプロットやステレオタイプ化した感情表現を強烈に提示している。画家の意図は、単に大衆的な図像を純粋芸術に高めて芸術のあり方を問うというものではなく、熟考された緊密な構成のうちに三原色のみを用いていかに明快で質の高い画面を作り上げるかという点にもあった。
「ラブ・コミック」と呼ばれる恋愛漫画シリーズの作品で「メロドラマの傑作」とも評される(メロドラマとは、感情の起伏を誇張した大衆的な恋愛劇のこと)。
被写体を再現するのではなく、マスメディアに描かれた被写体、つまり記号化された被写体を取り上げるものであった。
1962年から64年の間に手掛けられた戦争漫画シリーズの作品。「WHAAM!」は、日本語で言う「ドカーン!」の意味になるオノマトペである。戦争をテーマにした彼の2つの代表的な大作のうちの1つ。
これまでのアート作品は、鑑賞者が知識や想像力を使って「読み解く」ことを前提に作られており、ミステリアスな部分や感情に訴えかけてくる部分があった。しかし、リキテンスタインはそこを排除し、明確にセリフや擬音語を言葉で絵画の中に描き、絵の中の人物やモノの状況を説明した。どこで誰が何をしているのかをわかりやすく示し、鑑賞者の想像の余地をできるだけ排除するという手法をとった。
絵の具を分厚く塗った立体的な「筆触」を平面に表現しており、立体性を排除し、コミック・漫画と同じ様に平面として作品にしている。
「筆触」とピカソのドラ・マールのポートレイト作品をオマージュしたもの。同じく、漫画のように平面性を強調した構成画面となっている。抽象表現主義の影響が残っていると言われており、ピカソ以外にもクロード・モネなどの名画をオマージュして平面的に描いている。
ストリートアートの先駆者とも呼べる画家で、1980年代アメリカの代表的芸術家として知られる。シンプルな線と色とで構成された彼の絵は日本でも人気があり、キースの作品をプリントした Tシャツがユニクロやスポルディング等から販売されることもあって広く知られている。
1980年にニューヨークの地下鉄構内で使用されていない広告掲示板に黒い紙を張り、その上にチョークで絵を描くというサブウェイ・ドローイングと呼ばれる活動を始めた。そのシンプルな線でリズミカルに書かれた絵はニューヨークの通勤客の間で評判となり、キースの名が知られるようになった。グレイトフル・デッドのファンであるデッドヘッズであった。
彼は「エイズ予防啓発」「LGBTの認知」「核放棄」「反アパルトヘイト」など社会的・政治的な問題をテーマとした作品を制作。チョーク・アウトライン形式(犯罪現場で被害者の位置を書き記すための白い線)と呼ばれる方法で、シンプルで大胆な色使いの作風が特徴。
ヘリングが特に描いたモチーフとして、「Radiant Baby(光輝く赤ん坊)」「円盤」「犬を象徴するもの」などがある。「Radiant Baby(ラディアント・ベイビー・光輝く赤ん坊)」はキリスト教に由来しており、エイズや同性愛者などが社会に抗議するメッセージも込められている。シンプルなチョークアウトラインで力強い生命力を放った作品。
一見、ポップで華やかさが目立つ作風だが、そこにはヘリング自身が同性愛者でありエイズ感染者として、現代社会に対する差別や暴力に警鐘を鳴らす彼の思いが込められてる。
ヘリングは美術家としての名声を確立すると、美術界だけでなく、音楽界でも欠かせない存在となっていた。マドンナやRUN DMC、デイビッド・ボウイ、シルヴェスター・ジェームスなどのアルバム・ジャケットや、マドンナの衣装デザインを手掛けており、アートと音楽の架け橋を担う重要な役割も果たしていた。
そして世界中の都市で約50点以上のパブリックアートを制作。ポスター・アートや核放棄、エイズ予防、LGBTの認知などの社会問題にも取り組みながら精力的に制作を続けた。
1980年、彼の芸術人生の始まりとなった地下鉄構内の黒い広告板に白いチョークで描いた、通称「サブウェイ・ドローイング」と呼ばれるパブリック・アートの制作。地下鉄で制作を開始するにあたり、巨大な建造物や自然を主題に大規模な制作活動を行っていたクリストとジャンヌ=クロード夫妻やニューヨークの路地や地下に見られるグラフィティーに影響されていたと言われている。
日々、多くの人々が行き交い、日常生活に密接に関わる地下鉄構内は、彼にとってアーティストと社会の「架け橋」であり、制作活動を行う上で絶好の「実験室」と考えていた。
1980年代初頭、ヘリングはクラブ57で個展を開催。その様子は写真家の曾廣智が撮影している。この時代に作成した「ラディアント・ベイビー」は彼のシンボルとなった。キリスト教に由来しており、エイズや同性愛者などが社会に抗議するメッセージも込められている。ヘリングの太い線、鮮やかな色彩、動きのある造形は生命と結束の強いメッセージ性を掲げている。
ベルリンの壁にヘリングスタイルの作品を100メートルほど描き、翌日のニューヨーク・タイムズに掲載されるほどの大事件となった。
東ドイツ政府は1961年、自国民が西側に亡命するのを防ぐため、奇襲的に「ベルリンの壁」を設置した。ベルリンの壁は、独裁政権から逃れようとして100人以上の東ドイツ人が犠牲になった、非常にシリアスな政治的な壁だった。東ベルリンと西ベルリンを行き来するためのゲートとして最もよく知られているのがチェックポイント・チャーリーであった。西ドイツ側のチェックポイント・チャーリー博物館の館長であるライナー・ヒルデブラントの依頼で壁をキャンパスとして使ったのだが、ペイントした壁の内、2メートルほどは東ドイツの領土であり、ビザ無しで東ドイツに入国するとともに、壁をペイントすることで器物損壊したのである。実際、東ドイツの警察に逮捕されかけており、事態によっては警備員に撃たれてもおかしくない状況であった。
彼は作品に「犬」と「UFO」をモチーフにすることも多かった。この「Dogs with UFOs,1982」もその典型的な作品の1つ。彼の作品はシンプルかつ色彩豊かで、「ビジュアル言語」としての要素があり、多くの人々にダイレクトに伝わる構成が特徴である。
1989年、亡くなる前年、ヘリングは政府にエイズ認知啓発を促すため「見ざる・聞かざる・言わざる」の3匹の猿をモチーフにした作品「Ignorance=Fear.Silence=Death(無視=恐怖、沈黙=死)」を制作。
彼は雑誌『ローリング・ストーン』のインタビューで、自身のドラッグの体験から、エイズとの戦いが隠すことなく語られ、「すべてを包み隠さず喋るのは大変な勇気のいることだと感じた人もいた。(一部省略)」と語っている。
1990年3月16日、国際連合協会世界連盟からの依頼で、国連が発行したエイズ撲滅キャンペーン。記念切手「Fight AIDS World」の初日カバーを手掛けた。
「サブウェイ・ドローイング」で芸術家としての第一歩を順調に歩み始めたヘリングは、1986年初頭、地下鉄での活動を中断し、自身がデザインしたオリジナル作品を販売するために「ポップ・ショップ1号店」をニューヨークに開店。
「富裕層のためのアート」ではなく「大衆のためのアート」としてより多くの人々に彼の作品を届けたいという彼のメッセージが伝わってくる。
1982年までにヘリングは、同時代のグラフィティ・アーティストである、フーツラやケニー・シャーフ、バスキアらと交流を深めた。その中でも特別な交友関係を気づいていたのは、ポップアートの巨匠、アンディ・ウォーホル。
1970年~80年代に、最も勢いのあった国際的デザイン運動。合理的で機能主義的となった近代モダニズムに対し、その反動として現れた装飾性、折衷性、過剰性などの回復を目指した。
チャールズ・ジェンクスの著作「ポスト・モダニズムの建築言語」(1977)において定義された。
ジェンクスに刺激されたクリエイターとコマーシャリズムが結びつき、モダニズムという概念や枠組みの解体よりは、その揶揄・パロディ表現がもてはやされた。ゆえに、過剰で豊穣なモノが多々生み出され、決別したはずのスタイルを引用し、その滑稽な折衷も良しとしたり、一品制作的な凝った手仕事と素材へのこだわりと、チープ・シックなハンディクラフト感がともに復活し、装飾が再び賞賛された。
1966年ロバート・ヴェンチューリは、著書「建築の多様性と対立性」において、禁欲的に装飾を否定したモダニズム建築を批判。ミースの標語"LESS IS MORE"(少ないほど、豊かである)を"LESS IS
BORE"(少ないほど、退屈である)と皮肉った。近代建築の限界を指摘し、非近代的な、外皮の表象だけで成立している建築の方が、よりアクチュアリティーを持ち、都市の日常性をかたちづくるとも語った。
91戸の高齢者向け集合住宅。正面最上階にある大アーチと窪んだ入口の中心にある黒御影石の円柱、真っ白な玄関廻り、玄関の上バルコニー手摺に無造作に書かれたロゴ、微妙に不揃いな十字が切られた正方形の窓、5階の途中で水平に引かれた白いボーダー等、外観を構成する要素に脈絡なく唐突に置かれてるように反モダニズムの要素があふれている。
アール・デコの様式を成型合板によって表現。モダニズムを生んだ成形合板の技術にモダニズムと相反する古典要素を取り込んでいる。
ウィーン、コールマルク通りに面して建っているハンス・ホラインの最初の作品である「レッティ蝋燭店」。
わずか10坪の建物であるが、アルミの外壁に火立付蝋燭の形の開口部のファサードの建物で、1985年にプリッカー賞を受賞している。現在は、宝石店になっているようである。
ポートランド・ビルは現在でもポートランドの住民や建築学界によって論争の的となっている。そのデザインは20世紀初頭に確立したモダニスト建築の原理を否定するものと言われている。
特徴的なブロック様のデザインと正方形の窓を持ち、ポストモダン建築の代表的作品となっている。1985年、打ち出し細工の銅像「ポートランディア」がポートランド・ビルの入口に飾られた。
フロリダ州オーランド近郊に展開する、ディズニー・ワールドの社屋である。この建物には、テーマパーク運営に関わるディズニー・グループ各社オフィスがまとめられている。
円錐台“コーン”は、天空に抜けた中庭で、巨大な針が上部に設置されており、それが壁の内側に落とす影により時と季節を知らせる日時計になっている。日時計の目盛りパターンは、外部の意匠としても用いられている。この
“コーン”のまわりに、多様な材料・色彩・形態を持つエレメントが集められ、この建物を特徴付けている。
1961年、ピーター・クック、デニス・クロンプトン、デヴィッド・グリーン、ウォーレン・チョーク、ロン・ヘロン、マイケル・ウェブを基本メンバーとしてイギリスで結成し、70年代初頭まで活躍した前衛的建築家グループ。
詩と建築、デザインなどの分野を自在に横断し、消費社会における新しい建築や都市の姿を、当時のSFコミックスや広告などのイメージを引用しながら、ポップなグラフィックやコラージュで表現した。これらの表現がポップ・カルチャーが認められ始めた60年代の潮流に乗り人びとの共感を得たのである。
脚付きの巨大な都市が、居住者が希望する場所へと移動する「ウォーキング・シティ」や、着脱可能な空間ユニットを集合住居やオフィス、店舗など多様な用途にあわせて組み立てた「プラグイン・シティ」や、着脱可能な空間ユニットを集合住居やオフィス、店舗など多様な用途にあわせて組み立てた「プラグイン・シティ」など、奇抜なアイデアを同人誌『アーキグラム』誌上で発表。彼らは実際に建築もつくらなければ、宣言をしたわけでもないが、「建築を情報に還元する」(磯崎新)ことに成功し、建築ドローイングを「建築作品」とすることで、建築を完全に情報化。消費される消耗品となるように目論み、建築を優れたコミュニケーションメディアとした。
「建築界のビートルズ」とも呼ばれる前衛的でユーモアにあふれた姿勢は建築家のレム・コールハウスやザハ・ハディドなどの建築家だけでなく、ポール・スミスなどのデザイナーにも影響を与えた。また、2002年にはその活動が認められ、建築界でもっとも栄誉ある賞とされる「英国王立建築家協会(RIBA)」のゴールドメダルを受賞した。
彼らの雑誌はビビッドでポップな色使いにイメージのコラージュ、サイケデリックな表現を用いられた空想的なプロジェクトの提案などからなる。旧来の建築のドローイングに見られなかった手法など、その特徴は建築に「外部」を持ち込むことであった。
また扱われた題材にしても「ヴァサルリ、ビートルズ、宇宙ロケット、コンピュータ・ワードのロゴタイプ、テレビ・アンテナ、宇宙船、パンチ・テープ、プラトン的立体、ダイマクシオン、サイケデリック・プロジェクション、パラボラ・アンテナ…」とおよそ建築とは近しくもなく思われるものたちであった。
彼らがとりわけ興味を持っていたのが新しいテクノロジーがもたらす視覚的なイメージだ。かつてコルビュジェが自動車や飛行機を賞賛して近代建築を波及させたように、彼らはロケットやコンピュータなどエレクトロニクス技術を称揚する。
都市自体が歩くというアイデア。巨大な昆虫のような見た目をしたこの都市は、さながら「ハウルの動く城」のように居住者の行きたいところに向かって突き進んでいく。
都市は確かな形態を持たず、コンポーネントが接続されることによってのみ現れる存在となっている。建築・都市の部品たちは飛行船によって運ばれ、まさしく建築は「浮かぶ」。
「インスタント・シティ」の作業順序。
1.「都市」部品はトレーラーに積み込まれる。
2.風船からテントが吊り下げられ、飛行船によってひっぱられる。
3.「都市」の訪問にさきだって、一群の調査員、電気専門家が、目的地のコミュニティで空家をみつけ、これを集積、情報、連携基地に改造する。
4.「都市」が到着する。それは、敷地やその地区の性格に合わせて組み立てられる。全部の部品が使われなくてもいい。その土地の建物や道路のほうへもはみだしていく。それも「都市」の一断片になる。
以下、略。
プラグ・イン・シティでは組み替え可能なユニットがメガ・ストラクチャーに取り付き、変化していく。カプセルは消耗品であり、気に入らなくなったり、古くなったら、取り替えてしまう。そうして都市は永遠に変化していく。定型の姿を持たなくなる。
産業革命後、「鉄」という新しい建築材料の出現により発展した近代建築。近代建築では鉄とガラス、コンクリートという新しい素材を駆使することにより、それ以前の建築とは全く異なるスタイルが確立された。しかし結果的にモダニズムは都市をモノトーンで、単なる四角い箱のような画一的なビルで埋め、経済性を追求するあまり、その仕上げの質は低く、目新しさを失っていった。そして建築界での主役の座をポスト・モダン、すなわち古典懐古主義に明け渡してしまう。
しかし、一過性の懐古趣味であったポスト・モダンは長くは続かず、各国の建築家たちはこぞって次の様式を模索し始めた。そんな混沌とした時代にあって、ガラスや鉄を巧みにデザインした、シャープで機械的な建築が出現する。これが「ハイテク建築」である。
ハイテク建築の特徴は多岐にわたるが、科学技術的な要素の強調という点が大きい。建築物の技術的、機能的な要素を目立つ形で見せること、ボルト・ナットや配管を剥き出しにし、科学技術的な外観が、意匠として建築の美を創り出している。
パリ4区のサン=メリ地区にある総合文化施設。
通常建物内部に隠蔽される空調ダクトが外部から見える過激な設計となっている。建物内部へのアクセス手段もまた、外部から見える形となっており、エスカレータの入った太いチューブが、観覧客を内部へと誘う形状になっている。
当初は、デザインが斬新すぎて歴史ある建物が立ち並ぶパリの美観を損ねるなどの批判があったが、レンゾ・ピアノは「いかめしい文化施設のイメージを破壊したかった。これは芸術と人間のこの上なく自由な関係の夢であり、同時にまた、街の息吹が感じられる場である」と語った。
現在香港を代表する超高層ビルであるとともに、世界的にも著名なハイテク建築の一例として知られている。
中も外もメタリックでパイプがたくさんある化学工場のような外観。外階段がステンレスのパネルで覆われているので、螺旋を描く金属的な見た目が電動ドリルの刃のようになっている。他にも空調や電気などの配管も外側にむき出しの状態で設置してあり、特に空調ダクトは太さもあることから、化学工場のような雰囲気を見せている。夕暮れ時に屋内の照明が映えるころには、コンビナートの夜景のようでインダストリアル的な美しさを醸し出している。
引用:NewsDigest「知って楽しい建築ウンチク・現代建築 ~ハイテク建築編~」
引用:いしらべ「ロイズ・オブ・ロンドン(Lloydʼ s of London)」
モダニズム文化のデザインの中で、簡素で単一なデザイン、文化的な要素を排除したデザインに対してイタリアの学生を中心に不満が広がっていた。60年代の世界的な学生運動の中でラディカーレという運動が起きた。1963年、フィレンチェ大学建築学部から、旧式な様式で教えていた教育に対する抗議闘争にはじまり、ミラノ、ローマ、トリノへと進展、イタリア全土に広がった。
その渦中で1960年代中頃に「スーパースタジオ」や「アーキズーム」を設立したイタリアの若手建築家達はアーキグラムなどの行動に強い影響を受けつつ、モダニズムが否定した情緒、皮肉、キッチュといった価値感のデザインを積極的に用い、自らの内に沸き上がるフィーリングにフォーカスした。
「スーパースタジオ」は未来に対してネガティブで理論的な姿勢を持っており、「アーキズーム」は未来に対してポジティブで反語的・逆説的でコミカルな姿勢を持っていた。1969年にはフィレンツェの国際古美術ビエンナーレにおいて、「スーパースタジオ」と「アーキズーム」はともに「骨董決定版」展と題する共同のグループ展を行っている。
また、ポップアートカルチャーの影響やラディカル建築・デザインの指導的・象徴的立ち位置としてエットレ・ソットサスの存在があった。
その後、政治とメーカーの癒着への反発でミラノ・サローネでゴミが展示されるなど、生産に対する反抗運動などが起きたり、1972年には、MoMAでイタリアの新デザインを紹介する「ニュードメスティック・ランドスケープ」展が開催され、コンセプチュアルなデザイン、社会や自然環境とデザインの共存がテーマとなったりした。
イタリアの建築家集団。1966年アドルフォ・ナタリーニとクリスチアーノ・トラルド・ディ・フランチアにより設立された。フィレンツェ大学の建築学科を卒業した建築家達が中心になり、建築の人類学的な再構築の試みを一貫して行っていった。
既建築・都市から、ソファやランプなどのポップなデザインまで、幅広い領域の活動を行う。実作はほとんどなく、当時の技術では実現できないような建築デザインをドローイングして有名になった。
エットレ・ソットサスの後ろ盾を得て、ラディカルな反デザインを展開し、1960年代後半のラディカル時代の雰囲気を反映している。デザインに付与される意味を徹底して壊す、という彼らのラディカル・デザインへの意志は、均質で中性化された単位を繰り返し、建築全体に浸透させる「シングル・デザイン」という手法にも貫かれている。
引用:Interplay☆☆☆86GT LIFE「「スーパースタジオ」を振り返る」
引用:note「テクノロジーと未来都市」
引用:コトバンク「スーパースタジオ」
引用:10W「株式会社 SUPER
STUDIO」
引用:yamagiwa online「zanotta(ザノッタ)「Quaderna」【受注品】」
彼らの代表的なプロジェクト。差異を欠いた単一の表層が、世界の文化・建築的遺産や都市と関係をもつさまをモンタージュ形式で発表した都市計画案。
そこには歴史を貫くように描かれる巨大な構造体があり、その内部にはわれわれの時代の構造物が収められ、われわれの時代の構造物も歴史の延長上にあることを意識させている。
全世界を覆いつくしたテクノロジーが最終的にもたらすのは、均質で退屈な社会であるという事実を示している。格子状の面が"スーパーサ-フェス"で、最新のテクノロジーによって作られた生活装置。ターミナルからのびる万能プラグが人々の生活に必要なエネルギーと情報を供給し、この"スーパーサ-フェス"を設営すれば地球上のあらゆる場所で暮らす事ができるというもの。
「コンティニュアス・モニュメント」シリーズから派生した幾何学的形態を追求したテーブル。正確に3cm四方に描かれた縦横のグリッドで構成されている。
「Quaderna」をモチーフにしたテーブル。
イタリアの建築家、デザイナーのグループ。フィレンツェをベースに展覧会や出版による活動、家具や照明などのデザイン、そしてラディカルで未来主義的な都市の提案を行った。同じく建築運動を行っていた「スーパースタジオ」と共同開催した展覧会「スーパーアーキテクチャー」(ピストイア、1966。モデナ、1967)でラディカルなデザインや計画を出展し、国際的な注目を浴びた。
1966年に、アンドレア・ブランジ、ギルベルト・コレッティ、パオロ・デガネッロ、マッシモ・モロッツィによって結成された。
同世代のロンドンの建築家グループ「アーキグラム」が提案した「インスタント・シティ」の技術指向による未来都市提案に対して、「アーキズーム」は均一的な空間にキッチュな、消費社会を象徴するプロダクトやポップ・アートを配し、未来都市のイメージを消費社会の延長として表現した。アーキズームによるプロダクト・デザインは合理的なイタリアン・モダンをベースに、ポップなかたちでウィットにあふれており、後のポスト・モダニズムのコンセプトにつながっていったものもある。
引用:コトバンク「アーキズーム」
引用:山内陸平20世紀のデザインあれこれ「1966年モダンデザインの転換点」
動画:「ARCHIZOOM for SansSouci Magazine Vol. 2」
フォームとビニールで作られ、ポリウレタンブロックを2つのS字型パーツにカットしてあり、複数の構成で組み合わせ方を変化させて利用できる。
半円の6つの豹柄の布張りの座席を持ち、全体を漆塗りのグラスファイバーの正方形に挿入することによって作られている。4つのパーツに分解することが出来、組み合わせ方を変えて利用することが出来る。